今朝は,平和聖日の礼拝を捧げます。平和は,私共全ての者の長い願い。戦後75年の間,色々な事がありましたが,常に戦争の危険につきまとわれた日々でした。先日,広島地裁が,広島への原爆投下後に降った,いわゆる「黒い雨」による健康被害を受けたのに,被害者として認定されなかった地域の人々の被爆を認め,健康手簾手帳を交付する判決を下しました。長い間,国にほっておかれた人々は、この間ずっと,戦いの中にあったと言えます。平和な世界をつくり出すことは,人間にとって困難なことのように思われます。不可能なのでしょうか。主イエスは,山上の説教において,平和を実現する人々は,幸いである,その人たちは神の子と呼ばれる。」と話されました。ある人はこれを,理想を語る言葉だと言い,また,目をみはる美しい世界だ,と言いました。トルストイは,この実践を試みて,家出までして暮戦苦闘したと伝えられています。
主イエスは,ここで,決して理想を語っておられるのではありません。たとえ戦いの中にあっでも,どうすれば喜びと感謝の生き方が出来るかを示されたのです。「平和」とは「平安Jのことです。ユダヤ人の人々が日常交わす挨拶の言葉,「シヤローム」は、これを意味します。つまり,人と神との間の平和のことです。牧師が礼拝毎に,会衆に向けて祈る祝祷「主があなたを祝福し,あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし,あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて,あなたに平安を賜るように。」は,モーセがアロンとその子らに与えた祈りです。く民数記,6:24~26)。神が,平和を与え給うのです。苦しみ,困難の中にあっても,私共が礼拝を共に出来るのは,私共が出席するからではありません。これは主なる神の招きなのです。
平和とは,単に戦争がないことではありません。私共には常に多くの問題がつきまといます。痛いにかかったり,大切な者を失ったりします。しかし,このような時も,神が共にいて下さり,守って下さるのです。私共はなかなかこれを信じ得ないで,恐れ,神を疑うのです。イスラエルの人々も,こうして神を見失ったのです。しかし,神はお見捨てになりませんでした。「わたしたちは借仰によって義とされたのだから,わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマの信徒への手紙,5:1)とあるように,神が平和を実現して下さるのです。平和は,主が与え給う恵みです。平和の実現のための社会的な運動も大切ですが,伝道こそ,そのために必要なことが分かります。平和の実現は,神にのみ可能なのです。私共はこれを覚えつつ,伝道に励みたいものです。(磯村滋宏)