「誘惑を受けるイエス」
2月2日礼拝説教 寺島謙牧師
マタイによる福音書4章1~11節
主イエスが、悪魔から誘惑を受けるために「霊」に導かれて荒れ野に行かれた。霊というのは、主がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた際に、鳩のように天から降って来た「神の霊」のことである。主を荒れ野に導かれたのは、天の父なる神であった。つまり、主イエスが誘惑を受けられたのは神の必然によることであった。荒れ野とは、「神に敵対し反逆するもろもろの勢力の住む」世界である。まさに我々が身を置いて暮らしているこの世である。すると一体何故、救い主が荒れ野で悪魔の誘惑を受けねばならなかったのかというと、それは他でもない我々人間のためであった。「誘惑する者」が主イエスに近づいて来て、あの手この手で神から引き離そうとしたように、我々も常に悪魔の誘惑に晒されながら生きている。悪魔はそのようにして人間を神の支配から引き離して絶望と死に追いやる。だが神は、罪無き独り子を世に遣わし、悪魔の誘惑に会わせ人間と共に歩まれる決心をされた。そしてあらゆる誘惑に打ち勝たれたお方として主は、我々を救いへと導かれる。人間を罪から解放して神の救いに与らせるために、十字架の死に至る苦難の御生涯がここから始まったのである。