明日1月6日は、キリスト教の暦では「公現日」と呼ばれています。三人の博士が幼子イエスさまのもとを訪ねて、ひれ伏して礼拝し、没薬・乳香・黄金の宝物をお捧げしたのが、この1月6日であるというのです。博士たちの礼拝によって、イエスさまは、世界中の人を救う救い主として、世界中の人々に知られるようになりました。
 私たちは、日本人ですね。ユダヤの人々にとっては異邦人と呼ばれ、神さまとは関係のない人々であり、神さまから救われることは決してないと考えられていたのです。ユダヤ人だけが神さまに選ばれた人たちであり、そのほかの人たちは神さまとは関係がない、だから救いにあずかることはない、神さまから守られることはないと考えられていたわけですね。
 そんなユダヤの人々だけが信じる神さまを世界中の人々が信じる神さまとして広げていったのがイエスさまのされた御業でした。そして、イエスさまがそういう方であるということを初めて人々に知らせたのが、今日のお話に出てくるシメオンさんの役割でした。

 わたしは、日本に住んでいながら、日本の神様ではなく、西洋の神さまをどうして信じているのだろうと不思議に思うことがあります。どうして周りの人が信じている神様や仏様ではなく、イエスさまなのでしょう。イエスさまは、例えば、このわたしとどこでどう繋がり、キリスト教の信仰へと道を拓いてくださったのでしょう。そんなことを考えていると、今日のシメオンさんが、自分と無関係な人ではなく、身近な存在と感じられるようになってきました。

 シメオンさんは、信仰深く、正しい人であったと書かれています。そして、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。イスラエルが慰められるというのは、当時イスラエルの人たちはローマ帝国に支配され、大変つらい思いをしていました。重い税を押し付けられたり、厳しい労働を強いられたり、馬鹿にされたり、ひどい差別を受けたり、きっとユダヤ人としての誇りや希望をもつことができない毎日を送っていたものと思われます。いつになったら、神さまに選ばれた民としての誇りあふれるイスラエルに戻ることができるのだろう。早くイスラエルをローマの支配から解放する救い主が現れてほしい。そんな風に考えながら、希望を見出しにくい生活をやっとの思いで送っていたものと思われます。

 そんなシメオンさんが、ある日、ずっと彼に留まっていた聖霊からお告げを受けました。信仰深く正しい人であったシメオンさんの側には、神さまの聖霊がいつもおられたようです。そのお告げというのは、「あなたは新しく生まれる救い主を見るまでは決して死ぬことはない。」というものでした。生きる希望を失いかけていたシメオンさんにとっては、心からの希望を与えられるお告げでした。なぜなら、「あなたが生きているうちに、救い主の誕生をその目で見ることができる。」というすばらしい約束であったからです。そして、その時にきっとシメオンさんは、救い主というのは、人間として生まれる。そしてユダヤの人だけではなく、世界中の人を救う。しかし、その救い主は、十字架にかけられて命を落とすという厳しい運命のもとにあるということについても告げられたのではないかと思います。

 そのシメオンさんは、毎日毎日、神殿にやって来て、神さまに礼拝を捧げていました。年をとり、百歳に近い年齢であったと言われています。毎日神殿までの長い道を歩き、階段を登っていくのは、大変つらく厳しいことであったことでしょう。それでも、シメオンさんは一日も休むことなく、誠実に礼拝を続けていました。そんなシメオンさんの姿を想像してみた時、思い当たる日常的な光景があります。
わたしの身近な所で、一生懸命に生きておられる年老いた方の姿を見ることがあるのです。ある方は、シルバーカーを押して買い物にでも行かれるのでしょう。背を丸めうつむいた格好で、本当にゆっくりゆっくり歩かれます。いつになったら家に着くのだろうとこちらが心配になります。また、ある方は、観光地お城山のトイレを掃除する仕事をするために、毎日遠くから自転車に乗って山のふもとまでやって来られます。自転車を置いて、登山道をこの方もゆっくりゆっくり登って行かれます。「生きていくためには、仕事をしないといけないのよ。貧乏暇なしよ。」と明るく言われる言葉が心に響きます。また、自分の食べるもの、着るものなどの出費を精一杯倹約して、近所にたむろしている猫たちの餌を買い与えたり、増えすぎないように雌猫を保護して手術を受けさせたりしている方とも話をすることがあります。その方は、ご主人と離別され、大切な息子さんは病気で若くしてなくされたと聞きました。猫たちの命を守ることがその方の生きている証しであり、そのことを天国の息子さんにいつも話して、今を精一杯生きているのよと教えてくれました。

 それらの方はキリスト教の信徒ではありませんが、その生き方には、シメオンさんと共通したものを感じることができます。一生懸命に自分の命と向き合い、自分の使命、役割と信じたことに対して忠実に生きているということです。そんな風に考えると、シメオンさんという方は、決して特別な人ではなく、私たちの中にいる普通の人であるのかもしれません。

 そのシメオンさんにとって、何度目の神殿まいりの時か分かりませんが、ついにその時がやってきました。マリアさんとヨセフさんに伴われて、乳飲み子のイエスさまが神殿にやってこられたのです。当時のユダヤの律法では、40日を過ぎた長男の幼子は、神殿にのぼり、神さまに供えられなければなりません。子どもの代わりに牛や羊を供えたそうですが、お金持ちでなかった二人は、生贄としての山鳩を二羽連れてやってきたのです。その日もいつも通りにシメオンさんは神殿にのぼっていました。そして、偶然にもマリアさんに抱かれたイエスさまに会うことができたのです。偶然にと言いましたが、これは、霊に導かれて、つまり、神さまの導きがあってと聖書に書かれており、必然と言った方がいいと思います。ついに、シメオンさんの願いが叶う時がやってきたのです。

 シメオンさんは、イエスさまに近づいて行かれたことでしょう。よろめきながら、何度も転げそうになりながらも、懸命に近づいて行かれたことと想像します。「そこの赤ちゃんをお連れの方、お願いがあります。その赤ちゃんをどうか私に抱かせていただけませんでしょうか。わたしは、ずっとあなたの赤ちゃんを待ち続けて、神殿に毎日出向いていたのです。一目、すぐそばで見せていただきたいのです。」きっとそのように懇願されたに違いありません。マリアさんは、とても驚きましたが、マリアさんも神さまに選ばれて御子を産まれた方です。その老人が普通の人ではないこと、その方と幼子イエスさまの間には、神さまの導きがあることはすぐに察したことでしょう。「どうぞ、お願いします。」マリアさんは快くイエスさまを手渡し、シメオンさんは、いとおしそうに腕の中に眠る御子をご覧になったことでしょう。涙があふれ出たと教案には書かれていましたが、それまでの苦労や苦悩がすべてその一瞬で消えてしまうような、そんな深く大きな喜び、そして安堵であったことでしょう。

 その後のシメオンさんの言葉は、先ほど司会の先生に読んでいただいた通りですが、分かり易く教案に解説してあったので、それを紹介します。「この子は大人になって、神さまの御子として、神さまの御用をなさいます。しかし、イスラエルの人々は、決してそのことを喜ばすに反対することでしょう。だから、あなたの心も剣で刺しぬかれるほどに痛みます。」そのようにシメオンはマリアさんにイエスさまの将来に起こることを告げました。それは、イエスさまが、人間の罪を赦すために、十字架にかかって死なれるということです。しかし、その時のマリアさんには、そんな深い意味があるとは、決して理解することはできなかったでしょう。
しかし、シメオンさんは、この言葉をマリアさんを通して世の人々に伝えるために、神さまから召しを与えられ、この言葉を発するために、毎日神殿にのぼり、その目的のために生き続けてきた。そう考えると、その言葉には、とても深い意味があることに気づかされます。イエスさまの誕生というクリスマスの大きな喜びの土台となっているのは、その独り子イエスさまの大きな悲しみや苦しみを覚悟された上での神さまの大きな大きな愛に他ならないということです。そして、時代を越えてそのことを私たちに伝えるためにシメオンという一人の年老いた人間を神さまは用いられたということです。

 その後、シメオンさんは、イエスさまをマリアさんに返し、自分の家に戻っていったことでしょう。自分のベッドに横たわり、燃え尽きたように、その命は天に召されていったに違いありません。今日のお話を読んでいて、一つ疑問があります。それは、どうしてそこまで神さまはシメオンさんを待たせ続けられたのかということです。どうして、もっと早く救い主に出会わせてくださらなかったのでしょうか。もっと早く出会うことができれば、シメオンさんの苦労は少なくて済んだはずです。毎日毎日、神殿に出向いていったシメオンさんの姿が、先ほどお話した町で見かける人たちの姿と重なります。

 私たち一人一人の人間には、神さまから与えられた命があります。それと同時に、神さまから与えられた使命と言ったらいいのでしょうか、役割と言ったらいいのでしょうか、それは生きがいという形になったり、生きる意味となったりして私たちに意識されるのでしょう。そういったものが誰にもあるはずなのです。ところが、それを見失ってしまうことがあります。きっと誰にもあることでしょう。そんな時には、きっと私たちは、神さまに生かされている、命をいただいているということを忘れてしまっているのだと思います。命は、そのように大切に守られているものでありますが、また、いつ奪い去られるかもわからないものでもあります。

 このように元気な姿でお話させていただいている自分だって、いつ神さまから命を奪われるか分かりません。そのことは、昨年被災した時に強く感じました。隣家に住んでいた3名の方が命を落とされました。そのすぐ隣で生活していたのが私の実家に住む母と弟でした。私も、毎日のように通っていました。ほんのちょっとのタイミングの違いで、土砂の流れの方向の違いで、自分たちが犠牲になっていたかもしれない。それを考えると、当たり前に生きていることが、奇跡のように思えてきます。今、生かされているということは、まだあなたには、使命がある、役割があるといった神さまのご意志によるものだと信じます。その使命はシメオンさんの場合は、御子をその腕に抱きあげ、その方が真の救い主であるということを世に示すことでした。そのように生きる意味というか希望を与えてくださるのが、神さまであり、信仰であると思います。始まったばかりの新しい年ですが、今生きている自分に与えられている使命は何か、そのことを神さまに問い求めながら今年も生活していけますように。そして、御心に適う1年になりますように、今年も神さまにお従いしていきたいと思います。

最後に一言祈ります。
 ご在天のイエス・キリストの父なる神さま。今朝は、シメオンさんの信仰について学びました。シメオンさんと比べて、自分の信仰がいかに浅はかで、愚かなものか、よく分かりました。ちょっとしたことで、自分に与えられた使命から逃れようとしたり、楽をしようとしたり、諦めようとしたりする、そんな弱い自分です。そんな自分ですが、辛抱強く神さまとの約束を信じ切ったシメオンさんの信仰に一歩でも近づくことができますように、私たち一人一人をお導きください。今年1年も元気に、そして希望を持って明るく生活できますようにお導きください。
 この一言の祈りをイエスさまのお名前によって、御前におささげします。アーメン。