説教題 「わたしは復活であり、命である」寺島謙牧師
ヨハネによる福音書11章17~27節
ラザロという人物が遂に死に墓に埋葬された。そこへ主イエス・キリストが来られた。この時、ラザロが葬られて既に4日が経っていた。だが依然として弔問客がラザロの姉妹であるマルタとマリアを慰めるために訪れていた。古代社会においては、葬儀が数週間も続いたと言われている。一人の人間の死にいかに大きな悲しみが伴うか、そしてそれを人間は時間をかけて慰め、励まそうと考えたのである。だがどんなに時間をかけて慰めようとしても、人間には限界がある。その限界を突きつけるものこそ、万人に訪れる死に他ならない。死の前に人間は全く無力であり、滅びであり絶望である。故に死の力から解放されなければ人間は救われない。主イエスがラザロの墓を訪れたのは、死の力に囚われ絶望に瀕する他ない全ての人間を救うためであった。人間の命を創造され生かしておられるのは神である。その神が我々の命を握っておられることを主は明らかにされるために来られた。その神の支配は死を突き抜けて人間の命に及んでいることを、主イエス御自身、十字架の死より三日目に甦られた復活を通して証明された。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」。この主の言葉を倍じる時、永遠の命に生きる救いの道が開かれる。