「タラントンのたとえ」

 CS礼拝説教 マタイ25章14~30節


 イエスさまがお話になられた天の国の譬えです。天の国というのは神さまの支配している所のことです。天の国というのはですから既に始まっているのです。私たちがこうして生活している場所や環境、私たちが生きているこの命も全ては神さまのご支配の中にあるということです。生まれる前のあかちゃんがお母さんのお腹の中にいる状態と似ています。赤ちゃんは自分がお母さんのお腹の中に守られその命が生かされていることを知りません。赤ちゃんからはお母さんの顔は見ることが出来ない。でも赤ちゃんは実際にお母さんのお腹の中で守られている。同じように私たちほ目には見えませんけれど、世界を造り、そして私たち人間に命を与えて下さった神さまの大きな手の中に私たちほ守られ生かされている。これが天の国です。
 そして、この天の国に生かされている私たち一人一人に神さまほどう生きていかねばならないか、そのことが先ほど一緒に朗読したイエスさまの譬え話において教えられていることなのです。
 「ある人」が旅行に出かけることになったので、「僕たち」を呼んで自分の財産を預けました。「ある人」というのは天の父なる神さまのことです。そしてこの「僕たち」というのほ私たちを代表する人間のことです。神さまが旅行に出かけるというのは不思議に思えるのですが、これは要するに神さまのお姿が私たちには見えなくなったということです。でも神さまの御支配の中に生かされていることは変わらない。譬えには、「かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来た」と書いてありました。神さまは必ず私たちの「主人」として戻って来られる。帰って来られるのです。その間、私たち人間は押さまの僕として生きてゆかねばなりません。そのために神さまは私たちにご自分の「財産」を預けたのです。一人に「五クラントン」、一人にほ「ニクラントン」、もう一人には「一タラントン」を預けられたのです。何か不公平に聞こえますね。差別だと言われるかもしれません。本当にお金だったらそう言われても仕方が無い。でもこのタラン・トンというのはお金そのものではなくて、「重さの単位」のことなのです。神さまが僕たちに預けた財産というのほ、この世の富やお金のことではありません。「福音」と呼ばれるかけがえのない宝のことです。イエス・キリストのことです。ですから五クラントンであろうがニタラソトンであろうが、一夕ラントンであろうがその差はあまり関係ありません。イエスさまという「宝」を与えられたということにおいては差別も区別もないのです。じやあ五タラントン与えられた人とニタラソトン与えられた人、一クラントン与えられたその違いは何かというと、イエスさまを伝える「賜物」はそれぞれ違うということです。説教を語る者、教会学校の教師として子どもたちにイエスさまのことを伝える賜物を持つ者、役員や礼拝の当番など教会には色々な仕方でイエスさまを伝える務めがあります。皆さんのような小さな子どもでも、こうして教会学校に来てイエスさまが共におられることを聞いて、それを学校や幼稚園やお家で伝えることが出来ます。何気ない話を聞いたご家族が、イエスさまのこと、教会のこと、神さまのことを知ることがある。それから病気の人や病院でベッドに横になって過ごしている人にだってイエスさまのことを伝えることが出来るのですね。その賜物は限られているかもしれない。元気な人に比べたら小さいかもしれない。でも福音という神さまの宝であるイエスさまを、私たちはそれぞれに与えられて生かされているのです。
 ですから五クラントン預けられた人が「商売」して他に五タラントンを得た、ニタラントン預けられた人が商売して別にニタラントンを儲けたというのは、儲け話のことではないのです。福音を預けられ、その福音をそれぞれの賜物に応じて宣べ伝え、証ししてイエスさまのことを人々に知らせた。伝えたのです。ここにあなたを造られあなたに命を与えてこれを生かしておられる方がおられます。イエスさまはどのようなときもあなたと共におられます。そして必ずイエスさまはあなたを助け、励まし勇気を与えて一緒に生きて下さいます。そのことを伝える、伝道する。そうしてこの僕たちは天の国に生かされている喜び、希望を他の人たちに知らせたのです。そうして五タラントン預けられた人は五人、神さまを信じて生きる人たちを得ることが出来た。ニクラントン預けられた人は、二人信じる人たちを得ることが出来たというのです。そうやって僕たちは、主人が再び帰って来るその時まで、イエスさまのことを宣べ伝え、証しして生活したというのです。
 ところが一タラントン預けられた僕はどうしたかというと、その一タラントンを地面に穴を掘って埋めてそのままにしていたというのです。イエスさまという宝を神さまから与えられて生きるようにと言われたのに、イエスさまを土の中に埋めて、何もしなかった。神さまはイエスさまをお与えになって私はあなたと一緒にいる。あなたと共に生きると約束して下さったのに、その約束を信じずに生きた。この僕は神さまのことを全く分かっていませんでした。決算の時、この僕は神さまにこう言いました。「御主人様、あなたほ蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのクラントンを地の中に隠しておきました」。神さまのことをこの人は恐ろしい方だとそう思っていたというのですね。でもこれほ間違いですね。神さまはこのようなお方ではない、聖書にちゃんと神さまがどういうお方であるか書いてあります。罪人の私たちをなお見捨てず、これを赦してもう一度ご自分の子とするために、大切な宝であるイエスさまをお与えになったお方です。しかも私たちを赦してくださり一緒に生きて下さるために、罪無きイエスさまをあの十字架に架けて犠牲とされるはどに私たちを愛して下さいました。この神さまの愛に、タラントンを土の中に隠して置いたこの僕は、心を打たれていません。神さまから与えられたイエスさまを受け入れ、信じて生きる時、私たちの命、生活人生には喜びと感謝に満たされ、必ず生きる希望が与えられます。イエスさまが私たちを助け励まし勇気を下さいます。イエスさまは私たちに向かって、さあ私と一緒に歩もうと呼んでおられます。どのようなことがあっても私はあなたを忘れることも見捨てることもない、安心して信じて私についてきなさい、そう呼んでおられます。地上の生活ですから、苦しいことや辛いこと、病気になることもある。段々と私たちも年齢を重ねて弱さを覚え、老いていき、死を迎えねばなりません。でも神さまは私たちを必ず天の国に招いて下さいます。今日の聖書の譬えにあったように主人が僕たちの所に戻って来られました。神さまほ必ず私たちの所に来られる。そして私たちを迎え入れて下さる。その時を待ち望みつつ、イエスさまというかけがえのない宝を受け取って、信じてイエスさまと共に歩んで参りたいと思います。
 パウロという人もいいエスさまのことを聞いて、生涯をキリスト者・伝道者とされて、世界中にイエスさまのことを宣べ伝えた人でありましたが、パウロさんは深刻な病気を抱えていました。病気に散々苦しめられ、痛めつけられ、それ故にどうかこの病を取りのけて下さいと神さまに何度も祈らざるを得なかった人ですが、遂に病が癒やされることはありませんでした。でもパウロさんはそういう病気で弱い自分の中にイエスさまが生きておられる。イエスさまが弱い自分を助け支え、その命を今日も生かして下さっておられることに気づいて、生涯を希望をもって力強く、生きて働かれるイエスさまを宣べ伝えて歩むことが出来ました。

 みなさんにも福音という宝を神さまから与えられています。イエスさまが皆さんの中に生きておられる。そのことにもう一度心を向け、信じてそれぞれに神さまが与えられた命を生きて欲しいと思います。