「キリストはわたしたちの平和」
寺島 謙牧師
エフェソの信徒への手紙2章14~22節 8月は,平和について考える時と言えましょう。我が国に原爆が投下され,第二次世界大戦が終結した月です。世界の現状はどうでしょうか。ウクライナと,パレスチナのガザでの戦争には,終わりが見えません。ますます拡大するようにも見えます。大戦前の国際連盟は無力に終わりましたが,大戦後にできた国際連合も,機能低下のままです。「両者は,よく似ている」と言った人もいます。所詮,罪びとの集まりである人間社会には,真の平和を造り出す力は無いと言えそうです。聖書は、何と言っているのでしょうか。
今朝の聖書箇所の最初には,「実に,キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし,」とあります。キリストが,平和を造って下さるのです。直接的に聖書が言及しているのは,エフェソの教会における平和についてです。この教会には,ユダヤ人と異邦人が一緒にいましたが,前者は後者を見下していました。ユダヤ人は,神から律法を授けられたことを誇りとし,これを持たない異邦人に敵意をいだき,両者は対立していました。特に割礼の問題での対立は,顕著でした。使徒パウロは,これを戒めると同時に,主のもとで一つとなることを,切にすすめているのです。
元々,律法とは,荒野にさ迷う民(出エジプトの時)に対して,神の恵みとして与えられた,人間の歩みの指針です。これを守って,神を信じて歩め,と告げ給うた,神の愛の表れでした。ところが彼らは、その本質的な神の愛を忘れ、文面だけにこだわり、これが敵意に変わっていったのです。敵意は相手を破壊します。これがまさに戦争です。どうして,人間はこのような事をくり返すのか。人間は皆,罪びとだからです。勿論これは、社会的に刑法にふれるような罪ではありません。神に反し,神を無視する罪です。元々,人間は神に向き合うように造られた存在です(旧約聖書,創世記2章7節)。与えられた自由意志で神に背を向けた人間は,そのまま放置されれば,亡びる他なかったでしょうが,神はそうなさらなかった。
御自身から人間に近づき,赦し,御自分のものとされた。これは,主イエス・キリストの十字架につながります。十字架は、敵意を滅ぼされたのです。17節には、「遠く離れているあなたがたにも,また,近くにいる人々にも,平和の福音を告げ知らせられました。」とあります。
私達も,平和を造り出すものとして,教会を形成しています。山上の説教で主は言われました。「平和を実現する人々は,幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる(マタイによる福音書5章9節)」。キリストの十字架によって赦された者として伝道することは,平和をのべ伝えることなのです。