説教題 「なぜキリストは十字架で死んだのか」芦名弘道牧師
マルコによる福音書8章27~33節
今日は、キリストの十字架についてお話いたします。キリスト教と言えば、十字架。この松山城東教会の屋根の上にも、白い十字架が掲げられていますが、どこの教会に参りましても、たいていあります。キリスト教のシンボルです。で、その形がシンプルで美しいからでしょう、ペンダントなどのアクセサリーになったりもしています。
でもこの十字架は、一般にも知られていることですが、元々は古代ローマで死刑に使われたものです。日本の今の死刑は絞首刑で、一瞬と言って良い程の時間で死に至りますが、十字架は、受刑者の体を予め致命傷にならない程度に痛めつけた上で、磔にした後、放置するのです。人によっては、何日も苦しんで死んで行ったと言われます。
始めから何とも酷いお話しで幾分恐縮しておりますけれど、でも申し上げたいことは、その十字架が、今はとても美しいものとして見られている、そのギャップを埋めているものは何なのかということなのです。アクセサリーにされる程に人目に付いているのは、教会がこれを長い歴史を貫いて大切にして、掲げて来たからです。何故かというと、その中身は後に申し上げますが、その酷い十字架でイエス・キリストが死んで下さったことによって、自分たちは救われたのだ。十字架は、神様が、決して裏切られることのない愛でもって私たちを愛して下さっている証しである。そういう信仰によって、教会が十字架を高く掲げ続けて来たから、人の目に留まることになったわけです。
そこで、今日は、その十字架による救いを、初めての方にも出来るだけ分かるように、正面からお話ししてみます。キリスト教の中心には何があるのかを、是非知って頂きたいからです。
さて、それに入ります前に、私は今ほど「神様」と、特に説明もなく申したのですが、そこからしてよく分からないわけです。神様って何なのか。運命のような、目には見えない支配力のようなものかと思われるかもしれません。確かに、私たちは、自分の来し方を振り返ってみた時に、目に見えるあれこれのことだけで生きてきたとは到底思えません。
例えば、人との出会いなどは、人の思惑によっているようでいながら、本当はそれだけでは説明のつかない不思議な事実です。ですから、昔から、赤い糸で結ばれていたのだなんていう言い方が、普通にされて来ました。それで、例えば自分の両親の出会いを考えてみますと、もし二人が出会っていなかったら、自分はこの世に存在しておりません。つまり、自分の命が生まれるというこの重大事にも、やはり見えない何事かの人間を超えた力が働いているということは、誰もが認めざるを得ないところでしょう。
そこで聖書を読みますと、神様はまさにその目に見えない力でもって世を支配していると言っているのですが、そういうお方だと、お方と呼んでいるのです。そして更に、ただ不思議な力を振るっているというのではなくて、私たちと一緒に歩いて、愛して、生かし導いて下さるお方だと言っています。つまり、神様は、生きた人格なのです。ですから、名前があるのです、神様にも、私たちに名があるように。そういう、私たちが人格と人格の交わりを持つことが出来る相手、しかも私たちの命をこよなく愛して生かして下さる相手が神で、そういうお方が私たちの命運を握っておられるのだということです。これが、聖書がどこを切っても言っていることです。
そして、その生きた人格であるけれども、目には見えない神様を、私たちにそのままに明らかにするために世に遣わされて来たのが、イエス・キリストである、と。これもまた聖書が、殊に新約聖書ははっきりと、どこを切っても言っています。ですから、イエス・キリストを知れば、即神様を知ることになる。そういう非常に大事で、特別なお方です。
そうなりますと疑問が湧いて来るわけで、どうしてそんな高貴なお方が十字架という極刑に処せられて、惨めに死んで行かなければならなかったのか。この疑問に、イエス・キリスト-教会では親しみを込めて「イエス様」とお呼びすることが普通なのですが-イエス様が、生前寝食を共にしたお弟子が12人おりましたけれど、その中のペトロという人が、この疑問にぶつかっているのです。それが今日の聖書、マルコによる福音書の8章27節からのところです。
29節、文章の頭に29と数字が振ってあるところからを、改めてご覧下さい。「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
これは、細かなところはさておき、ペトロのこの時の思いとイエス様の御思いが食い違っていて、それをイエス様が強く非難なさっているということはお分かりになるでしょう。何がどう違っていたのかと申しますと、29節で、ペトロが、イエス様のことを「あなたは、メシアです」と申しています。この「メシア」というのは、救い主という意味です。ですから、ペトロは「あなたは、神様を身を以て現して、その御心を世に行うために来られた方です」と、正しいことを言ったわけです。そこで、それを受けてイエス様が、31節で、ご自分がそれをどう行うのかをお弟子たちに明かされた、しかもあからさまに話し始められました。ところが、それが、ペトロが思っていたメシアとは全然違っていたのです。同じ「メシア」という言葉を遣っていながら、ペトロとイエス様とでは、その中身が全く違っていました。
ペトロがイエス様に期待したのは、一言で言えば、世直しです。ペトロはユダ人ですが、当時のユダヤは、強大なローマ帝国に植民地のように牛耳られておりまして、誇りはズタズタに踏みにじられる。また、同じユダヤ人の中にも、反ローマがいるかと思えば、ローマにすり寄って甘い汁を吸っている者もいて、同胞が二分三分されている。そういう惨めな状態から自分たちを救い出して国を建て直してくれる世直し人、それをメシアに、救い主に求めたのです。
普通救いと言えば、これに似たことを期待するでしょう。苦しい現実に喘いでいれば、そこから解放されることが救いだ。不正が横行している世が、公正に裁かれて健全なものになることが救いだ。もし神様がいて、その御心を行うために来たのがイエス様だというのなら、それをして呉れるはずだし、そうでなければ嘘だと思うのは、自然なことです。
ところが、イエス様が仰ったことは、31節で、自分は人々に苦しめられ、偉い人たちに排斥されて、殺されるのだ、と。続いて復活すると仰っていることには、今日は触れません。とにかく、こうして殺されることになるという、これが十字架での死を予告しているわけです。これは大方の期待を裏切る、大変に惨めな運命で、一体この何が救いなのかと、ペトロでなくても思います。
あの、話は少し脇道に逸れますが、今世間を騒がせている、旧統一協会です。あれは、この十字架をイエスが救いに失敗した結果だとするところから生まれたものです。教祖の、もう亡くなりましたが文鮮明という人がそう言って、自分はイエスが失敗した救いを成し遂げるために生まれた再臨のキリストだ、救い主だという理屈を立てた。ですから、旧統一協会では彼の言うことが今も絶対でありまして、彼が聖書を解釈した教えだという「原理講論」という本、今は別の呼び方になっていますが、それを一冊何百万円かで信徒に買わせる。でもそれは、聖書の解釈と言いながら、聖書とは全くかけ離れた内容で、今色々取り沙汰されている信者たちの滅茶苦茶な言動が、そこから当然生まれて来るような中身のことが教えられています。
私は、牧師として、随分と考えさせられます。十字架は失敗じゃないかという見方は、このペトロを見ても分かります通り、人の常識の見方に合っています。そこから、あの集団が生まれているということです。でも、イエス様は、ここでペトロを「サタン、退け」と仰るほどに、ご自分が何故十字架に死ななければならないのかを、ちゃんと分かって欲しいと強く思われていた。教会は、そのイエス様の御心に従って、十字架の救いをいつも正しく、明らかに語り告げる責任があるということを、私は旧統一協会の一件から、近頃強く思わせられています。
さて本題に戻りまして、それならば、ペトロを躓かせたイエス様の十字架は、一体どういう意味で私たちを救うものなのか、その真意が肝心の所です。これについても、聖書は明瞭に言っています。私たち人間の罪をご自分が身代わりに背負って、罪の責任をご自分の命で以て肩代わりして、私たちを赦して、生かすためだ、と。単純に言えば、私が本当の意味で生きるために、イエス様が死んで下さったのだ、と。
まあ、これは俄には飲み込みづらいことでして、どうしてそれが自分に必要なのか、罪とは何かから始めてお話ししなければならないことであるわけです。でも、それは後に申し上げることとして、先ずは、実際に十字架によって救われて、新しく生きた人がおりますので、その実例をご紹介します。
皆さんの中には、淵田美津雄という名前をご存じの方がいらっしゃるかもしれません。第二次世界大戦の時に、あの真珠湾攻撃をしました空襲部隊の総指揮官だった方です。有名な「トラ、トラ、トラ」、「我奇襲に成功せり」という意味の暗号を送ったのは彼です。で、その生粋の日本軍人であった彼が、なんと戦後クリスチャンになりまして、日本のみならず、アメリカにまで渡って伝道されました。その彼がクリスチャンになりました直接の動機が、十字架のキリストに触れたことだったのです。
切っ掛けは、戦後間もなく、アメリカで捕虜だった同僚からこんな話しを聞いたことです。アメリカ軍のキャンプで、自分たちに何の邪念もなく尽くしてくれる若いアメリカ人の女性がいた。なぜそんなに良くしてくれるのかと尋ねたけれど、答えを渋る。しつこく聞いた末に重い口を開いて言ったのは、「自分の両親が日本兵に殺されたからだ」ということだったと言うのです。
それでは事が真逆じゃないかと、更に問い詰めた末に分かったことは、その女性の両親はキリスト教の宣教師で、フィリピンにいる時に、日本兵から「スパイだ」と疑われて、殺すと言われた。誤解だと釈明したけれども通じないので、観念して、死に支度のために30分猶予をくれと言って、聖書を読み、神様に祈って命を終えたのです。お嬢さんは、それを知らせられ時に、勿論胸が張り裂けるような思いだったでしょうが、両親が最後の30分に何を祈ったのかを思い巡らす内に、憎しみが愛に変わったのだと言ったというのです。その話は淵田さんの胸を強く打ちましたが、事の真相に思い至るのはしばらく後のことです。
淵田さんは、ある切っ掛けで聖書を買いまして、あちこち探り読みしている内に、十字架に掛けられたイエス様が、最後に祈ったお祈りの言葉に出会います。ルカによる福音書の23章34節に書かれています。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」これを読みまして、「ああ、あの女性の両親が祈ったのも、このお祈りだったのではないか」と思ったそうです。
これは、直接には、イエス様が、何の過ちもない自分を十字架に掛けていい気になっている人々を、神様に執り成して、赦しを請う祈りです。あの女性のご両親も、何の過ちもない自分たちを殺そうとしている日本兵を、そういうふうに祈って執り成したのに違いないと、淵田さんは思いました。そして、「何をしているのか知らないのです」という言葉に、ハッとしました。自分は、あの戦争で、祖国のために命を捧げて正義を行っていたつもりだったけれど、何の過ちもない宣教師夫妻をスパイ呼ばわりして殺してしまうような、本当は何をしているのか知らないままに、途方もないことをやらかしていたのではないか。そして、その自分の取り返しのつかない罪のために、執り成して祈っている方が、ここにいる。イエス様が、あの十字架の上でご自分の命を捨てて、この自分も赦されるように、神様に執り成して下さっている、と。
その時の思いを、後の講演の中でこう仰っています。そのまま読んでみます。「私は、祖国日本を愛し、火のような敵がい心を抱いて戦ってきたが、それはいわれなき憎悪ではなかったか。祖国愛とみたなかに偏狭にして独善なものがなかったか。人類を、そして世界を理解することを忘れていたのではなかったのか。その祖国愛が、愛する民族をこの塗炭の苦しみに追いやる始末になったのではなかったかということです。日本国憲法の戦争放棄の理念を裏返してみれば、そこには日本が全人類への憎悪に終止符を打ったことを意味するのでなければならないと、私は思うのです。」
死ぬ苦しみの極みの中で、自分を執り成して祈ってくれている人がいる。これは、無限の憐れみです。淵田さんは、それに打たれました。だからこそ、その御前で、自分をあるがままに見て、過ちを認めることが出来ました。自分を素直に悔いる心が生まれたのです。
その証拠に、彼は、戦争の悲劇を乗り越えて繰り返さないためには、敵も味方も一緒にこの十字架のイエス様の前に立って、謙遜に頭を垂れねばならない、自分の過ちをそれぞれに御前で認めるところに初めて和解が生まれると、その道を一所懸命に伝えようとしました。
私たちも、淵田さんほどの事ではなくても、自分としては正しいと思って言ったりしたりしたことが、思いがけなく人を傷付けて貶めるようなことになってしまう。願いとは裏腹に、不幸な結果を招いてしまう。そんな後悔が一つもない人は、恐らくいないと思います。そして、その記憶は、事の大小に関わらず、消えずに残るものです。忘れたと思っていても、何かの拍子にふと甦ってくる。私など、高校生時分にした、もう何十年も前のその類いのことが、お風呂に入っている時なんかにふと思い出されて、一時暗い気持ちになることがあります。
それは、考えてみると不思議なことで、どうしてだろうかと思うのですが、それは、その小さな過ちの中に自分の暗い本性が垣間見えているからではないかと思う。丁度、小さな窓からでも部屋の全体が見えてしまうように、生身の自分、手前勝手で独りよがりな自分が、そのままそこに見えるからではないかと思います。そのあるがままの自分、人間を、聖書は、罪人と名付けているのです。
そして、神様というと、その自分をそのままに見通しているもう一人の冷たい目のようにも思えて、その眼差しにはとても耐えられないと思います。でも、神様をそのままに現されたイエス様は、何をなさったか。勿論そういう人間の本性を見通しました。でもその上で、黙って身代わりに自分の命を十字架に献げて、「この者を赦して下さい」と祈って、実際に死んで行かれた。神様は、こんな自分を噛んで吐き捨てたいとお思いかと思ったら、全然違う。
イエス様が「赦して下さい」と祈られたのは、命がけで祈られたのですから、勿論「大目に見てやって下さい」というような、いい加減なことではないです。そうではなくて、「私がこの者に代わって死にますから、それに免じて、この者は生かしてやって下さい。新しく、正しく、生かしてやって下さい。」という祈りです。
ご紹介しました淵田さんは、まさにそのイエス様のお祈りの通りに新しく生き始めました。自分が戦争の間中抱いていた、敵に対する本当を言えばいわれのない憎しみについて、それを全人類に対して終止符を打つのが日本国憲法の戦争放棄の理念だと、言い切ったのですから。 つまり、淵田さんは、十字架のキリストの御前で、自分を新しく生き直し始めた、そうすることが出来たのです。私たちにとっても、十字架はそういうものです。十字架のキリストの、罪人の自分をどこまでも赦して生かそうという無限の憐れみの前で、自分を率直に悔いて、出直せる場所です。
皆さん、自分がしてしまった過ちは、勿論謝ったり、必要ならば償いのための何らかのことをすれば、社会的には一応責任を果たしたことになります。でも、それで事が本当に解決するかとなれば、そうではないでしょう。先ほど申しましたように、それは消えない記憶になって残る。罪人の自分がそのままに現れている、痛い傷になって残ります。そして、そういう罪の重荷を、「あなた、それをここに一旦全部下ろして、自分を正直に省みて、新しく出直しなさい」と、責任を持って言ってくれる声は、世のどこを探してもないです。
でも、一つだけありました。それは、十字架のイエス・キリストです。私のために、身代わりにその罪を背負って死んで下さった方、実際に。その御前でだけ、私たちは、自分をそのままに省みて、悔いて、罪の重荷を降ろすことが出来る。降ろして、改めて新しく出直すことが出来る。そういう人間の再出発の場所が、十字架の御前です。
これは一人自分だけのことには留まらなくて、先に、お弟子のペトロが願ったのは世直しだと申しました。救いと言われれば、誰もがそれを願うに違いないとも申し上げたのです。そういう思いで人は生きていますから、世の中を少しでも良くするために手を打って、あれをこうしよう、これをこうしようと、自分でも努力します。それは勿論ぜひとも必要なことですし、尊いことです。でも、それに一生懸命になったことのある人ならお分かりになると思いますけれど、その折角生み出した良いものを、端から壊して行くのもまた人間です、悲しいことですが。今の憲法改訂の動きなんかは、その最たるものではないかと私には思えます。自分が苦労して産み出したものを、自分で汚して、崩していく。人間の歴史は、その繰り返しです。
それならば、一体どこから本当の意味で世が新たになり始めるのか。それは、人間自身からです。人が、自分を新しく生き直すこと。過ちは過ちとして認めて、その自分が赦されて、生かされる道があることを知って、出直すこと。そうして、人が心の奥底から新しくされるところから、世は本当の意味で新しくされ始めているのです。人が生み出す良いものを、まさに良く生かして行く人間が生まれることが、第一に必要なことでしょう。十字架のキリスト、その死による赦しの御心こそ、その一人の人を産む力です。
そこで私は、私の教会の一人の方をご紹介して終わりたいと思います。その方は、80歳に近くなってから教会に来出して、洗礼を受けられました。今から十年と少し前です。その頃よく仰っていたのは、「人生の終わりを美しくしたい」ということでした。その方は、ご自分では仰らないのですけれども、聞くところによると、随分と痛い経験を重ねて来ていたようです。そしてその原因には、その方の気性の激しさや、人を極端に選り好みするようなところが深く関係していたようです。
それで、教会生活を始めて間無しの頃、案の定教会の中に馬が合わない人が出来て、教会に来たくなくなりはじめて、相談を受けました。で、私は、全部お聞ききした上で、「それなら、礼拝だけ守って帰っても構いませんよ」ということを申し上げたのです。そうしたらその方、居住まいを正すようにして仰いました「それではいけないと思うのです。だってそれでは、私のために死んで下さったイエス様に申し訳ない」と。
私は、その場凌ぎの気休めみたいなことを言ってしまった自分を恥ずかしく思いながら、でもとっても嬉しかったのです。「ああ、この方は、十字架のイエス様の前で新しく生き直し始めている。願いの通り、自分を美しくする一歩を踏み出し始めている。」そして、そこから、大袈裟に聞こえるかも知れないのですけれども、本当の意味で世が新しくなる曙の光が昇り始めていると、私は本当にそういう風に思ったのです。自分の方から和解の道へと踏み出そうとしているのですから。
今日は、十字架のお話をしました。十字架こそ、すべての人を生かすただ一つの救いです。そのことが幾分かでもお伝え出来たなら、これに勝る喜びはありません。十字架のキリストの御前に、一人でも多くの方と一緒に頭を垂れて生きて参りたいと、心から願う者です。