「ラザロ、出てきなさい」
寺島 謙牧師
ヨハネによる福音書 11章38~44節
今朝の礼拝は,「聖徒の日」礼拝として捧げます。皆さんの右手上方には、かつて本教会の会員で,今は既に御許に召された方々の御名前が掲げてあります。「証人に囲まれて」という言葉がありますが,今朝これらの方々が,私共と一緒に礼拝に参加しておられる事を覚えたいと思います。ここに集う全員が,いつの日にか,これらの方々と同列に加わる事も,確かな事です。死に対しては、我々は全く無力ですが、幸いにも復活の希望を与えられています。
マルタとマリアの兄弟,ラザロの死に際して,主イエス・キリストは,涙を流されて姉妹に同情されましたが,38節には,さらに「憤りを覚えて」とあります。何を憤られたのか。人間を絶望へと導く「死」に対してでありましょう。常識で考えるならば,死はその人にとって,全ての終わりです。しかし,全ての事が常識で解決するわけではありません。聖書は、「死」に対しても,希望を語ります。同福青書の主イエスとマルタとの会話が,これを示しています。
マルタ「主よ,もしここにいてくださいましたら,わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
イエス「わたしは復活であり,命である。わたしを信じる者は,死んでも生きる。」
マルタ「はい,主よ,あなたが世に来られるはずの神の子,メシアであるとわたしは信じております。」。
マルタはここで,常織的には完全に絶望の状態に陥っていたのですが,なお,神に対する信仰を失ってはいなかったと思われます。「ほんとうの絶望は、神を見失うことだ。」と言った人がいますが,神への信仰は希望の道へと人を導くのです。なおも常識の立場に戻り勝ちなマルタに対して,主ほ「もし信じるなら,神の栄光が見られると,言っておいたではないか。」と言われました。ラザロは生きかえり,人々は神の栄光を見ることができました。「あなたがわたしをお遣わしになったことを,彼らに信じさせるためです。」という主イエスの祈りが,きかれた結果です。
全ての物を照らし,日々目に入る太陽の光。我々はこれを,全く当たり前の事と思っていますが,これは神が創られたものです。神は太陽より偉大です。神は我々の目には見えませんが,真に存在し給います。さきのマルタもマリアも,我々もまた,この神を忘れ勝ちなのです。この神は、主イエス・キリストの十字架を通して,我々の死からの救い,全き救いを成就して下さいました。ラザロほ生きかえりましたが、やがて時が来て,再び死にました。しかし,永遠の命の希望をもって死んだのです。その初穂となられた主イエスは,復活し給い,今も生きておられます。
名札に記された我々の先達の方々も,今は主の御許で眠っておられますが,いっの日にか,主と共にある永遠の命によみがえるのです。我々もまた同じです。