説教(2024年11月月報より)

「神の栄光が現れるその時をのぞみつつ」

 ヨハネによる福音書2章38~44節 

  寺島謙牧師

 今朝は,「聖徒の日」礼拝を,共に守ります。私共の信仰の先達を偲び,聖者に学びたく思います。墓前礼拝をも捧げます。墓は故人を偲ぷ,よすがですが,自分の死をも思わせるもので,何かしら恐ろしいもの,よくないものとして,私達はこれを避け勝ちであります。聖書に書かれた,死んだラザロの二人の姉妹は、悲しみにくれていました。その場におられた主イエスほ,涙を流され,かつ憤られたとあります。主イエスも,その死を自分の事としてとらえ,心から悲しまれました。それと同時に,死に対して憤られ,これに対峙されたのです。
 主イエスが,「石を取り除けなさい」と言われたのに対し,マルタは「もうにおいます」と答えました。これが死の現実です。死に対してほ,私達は全く無力です。結局は,死が待っている。私達の生は全く空しい,という思いに襲われます。聖書はこれを何といっているか。パウロはローマ人への手紙の中で,「罪の価は死」(6章23節)と断じています。人類の始祖アダム(人名ではなく,”人間”という意味です)の神への背き以来,罪が人間に入り込んできました。
これが、現実の世界の悲惨につながります。死が,戦争が,強盗殺人が入ってきました。悪と知りながら,人類は,これを止めることが出来ません。世界と人類は,また自分の生活は,これからどうなって行くのだろうか。これが現世にあって生きる私達の気持ちです。
 ここで主イエスは,どう言われたか。先の11章の初めで,ラザロの死の病につき,「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と語られました。これは真実でした。ラザロは,マルタの心配をよそに,主の一声で生きかえりました。これは,神の栄光の為でしたが,同時に,人々が主イエスを信じるため,つまり,人間の救いのためでもありました。主がなされた「わたしがこう言うのは,周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを,彼らに信じさせるためです。」との祈りにも,はっきりと表されています。
 私達は,常に主に守られ,導かれて生きているのです。神は、私達を決して見捨てられない。そのために,人間の姿をとった主キリストをお贈り下さったのです。そして,私達に代って主が罪を引き受けられました。これ以外に道はなかったのです。これを思い起こして,安らかな日々を送ることを可能にして下さいました。「わたしたちの卑しい体を,御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(ピリピ3章21節)。神のこの希望に生きた,先達の方々にならい,喜びと感謝をもって,毎日を送ることを顧うものです。