5月12日

み言葉のそそぎ 説教題「キリストの証人となるために」 

使徒言行録26章1~18節  寺島 謙 牧師

 アグリッパ王から「お前は自分のことを話してよい」と告げられたパウロは、まず自分がユダヤ人の慣習に従い、またユダヤ教の中でも最も厳格な派であるファリサイ派の一員として歩んで来たことを話した。そして自分もかつては、ナザレのイエスについて大いに反対し、キリスト者達を迫害する者であったことをアグリッパ王に話した。だが今このように自分がキリスト者となり訴えられ、裁かれているのには理由があるというのである。それは、多くのユダヤ人が昼も夜も熱心に仕える神が先祖にお与えになった約束の実現に望みをかけているからだというのである。今自分に与えられている試練は、神の必然によることであって、その約束の実現のために自分は今こうして捕らえられ裁かれているのだというのである。その神の約束とは、あの十字架の上で死んだナザレ出身のイエスであり、イエスが甦らせられたことこそ、神が約束された救いの成就だというのである。神はこのようにイエスの十字架の死と復活を通して全ての罪人を赦し救うことを約束している。事実、迫害者として生き、神に背き敵対し罪に死すべきパウロに、復活の主は御自分の方から近づかれ、御自身を顕された。そしで悔い改めさせて神に立ち帰る救いの道を開かれた。キリストの復活こそ、神が今も生きて働いておられる確かなしるしである。