説教(2020年10月月報より)

  聖乗降臨節第19主日(10月4日)礼拝説教より
『タピタ,起きなさい』寺島 謙牧師
 新約聖書使徒言行録9章36~43節
 我々一人一人の人生は,それぞれ全く異なったものです。私的な事情も,社会的責任も。しかし,唯一絶対的に共通のものがあります。それは「死」です。人は全て,死ななければならない。これに抗うことは絶対に出来ません。最近,若い女子中学生の投稿記事が新聞に出ていました。"わかってはいるが.死が恐い。病気も恐い。"我々にとっても,同じ重大事であります。この"死"の問題が解決しなければ,結局我々は救われないのです。
 本日の聖書箇所は,タビタという,立派なキリスト者の死から始まります。沢山の善い行いした女性でした。人々は,その遺体を丁寧に救い,安置しました。死は,このような人々にも,必ず訪れます。ある説教者は,「死は,ただ一種類のみ存在する。それは"罪人の死”だ」と。全ての人に死が臨むのは,全ての人が罪人だからです。罪の値は死であります。これは聖書が示すきびしい現実です。神が,このように語り給うのです。人の力では,どうにもならない「死」。タビタの遺体を前にした人々は,神の業をなす人として知られていたベトロが,近くにいると聞き,彼を急いで呼び求めました。ペトロから,人間の死について聞き,出来れば彼女を生き返らせてほしいと願ったのでしょう。ペトロの祈りを聞き給うた神の力によって,タビタは生き返りました。
 神は,人間が死んで失われることを願ってはおられません。生きて御自身のもとに帰って来ることを望んでおられます。ぞのよい例が,ルカによる福音書にある,有名な「放蕩息子のたとえ」です。父親からもらった財産を放蕩の結果,全て使い果たし,そのままの姿で父のもとに帰ってきました。「わたしは天に対しても,またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と,自己の罪を悔い改めた息子に対し,父は息子の罪を責めずに,首を抱き接吻して迎えました。「食べて祝おう。この息子は,死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったからだ。」
 このたとえの通り,神は,人の力ではどうにもならない死と亡びから人を助け出す道を開き給いました。これこそが,主イエス・キリストの十字架であります。主の十字架の死を前にして,我々は罪を悔い,ここで罪に死ぬのです。そして,新し命に生きるのです。
 一度は死ぬべき我々には,復活してよみがえる希望があるのです。復活の初穂となられた主にあって,丁度ペトロの「タビタ起きなさい」という呼びかけで起き上がったタビタのように,我々も主の呼びかけによって,よみがえるのです。このような希望をもって生きることを許されている我々は,真に幸いであります。(磯村滋宏)