「これはわたしの愛する子、これに聞け」
寺島謙牧師
マルコによる福音書 9章2節~13節
3人の弟子だけを連れて高い山に登られた,主イエス・キリストに関する、不思議な出来事です。主の姿が突然に変貌し,白く輝きました。神の御業です。そして主は旧約聖書を代表する二人の大予言者,エリヤとモーセと語り合われました。ルカによる福音書によれば,それは主の十字架上の死についてであったと書かれています。
そもそも主は何のために高い山に登られたのでしょうか。祈るためでした。主も,6日前に弟子達に語った御自身の十字架上の死について,祈らざるを得なかったのです。真剣に切なる祈りを捧げるために,高い山に登られました。主は、人間でもあり給うたのです。「この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし,わたしが願うことではなく,御心に適うことが行われますように。」というゲッセマネの祈りへと続く祈りを,ここで捧げられたのでしょう。
さて,この時ベトロが語った「仮小屋を3つ建てましょう。」という言葉は,理解しにくい言葉です。弟子達は非常に恐れたため,ペトロ自身も,何を言えばよいか分からなかったのだ,と書かれています。しかし,「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」とも言っています。彼らは、いつまでもこのままでいたい,主をここにとどめておきたい,という思いがあったのでしょう。すると,彼らを覆っていた雲の中から,「これはわたしの愛する子。これに聞け。Jという声が聞こえ,彼らはますます恐れ,ひれ伏してしまいました。山を下りるとき,主は御自身の復活について話されました。主の復活について,弟子たちも論じ合った,と書かれています。これは,むづかしい問題です。しかし,これがなければ,我々の生命に意味はありません。主の復活こそが我々に真の生命を与えるものであることを,聖書は明らかに示しています。我々は、復活に向かつて進んでいるのです。これは、真実です。人の世には、現世の利を求めた不和,争いが絶えませんが,これらはいずれも,はかないものです。しかし,「主の復活のみは,ゆるぎません。これこそが,我々の希望なのです。このことをしらせに,まず預言者エリヤが来るはずであると,弟子達は聞かされていました。バブテスマのヨハネが,まさにエリヤでした。しかし,人々は、聖書に書いてあるように,彼を好きなようにあしらって,聴く耳を持ちませんでした。この重い罪を贖うために,御子イエス・キリストが来られたのです。
ここに先立つ聖書箇所には,「自分の十字架を背負って,わたしに従いなさい。」という主イエスの言葉が示されています。「これに聞け。」という神の御旨に従う道は,全てを神にゆだねつつ,自分の十字架を背負うことでありましょう。