キリスト教がユダヤ教と深い関係にあることは,周知の通りです。使徒言行録に出てくる人々の多くは,ユダヤ教を信じていました。彼らが大切にしていたのが,神から与えられた律法です。この律法には,人間に対する神の御心が深く表れており,当然,人間が守らねばならない捷です。しかし,人間はこれを守れません。それは人間が例外なく,皆,罪人だからです。これを守ることによって救われることは,不可能なのです。人の救いは,一方的な神の御力,つまり神の給うた救い主を信じる信仰によってのみ可能となるのです。主イエスが説かれたこの福音は,弟子達に始まり,初代のエルサレム教会を経て異邦人社会,つまり全世界に広がったのです。今朝の聖書箇所は,この起点ともなった,アンティオキア教会で起きた出来事です。
ここには,律法を深くは知らない,多くの異邦人がいました。そこに,ユダヤからやって来たある人々が,律法に書かれている割礼を受けなければ救われない,と教え出したのです。ここに滞在していたパウロとバルナバとは,当然激しい対立が生まれました。これを解決するために,パウロ,バルナバ,その他数名の者がエルサレムに行き,初代の使徒や長老達と話し合うことになりました。福音の根幹に関わる事柄です。エルサレム教会は,彼らを大歓迎しましたが,ここでもファリサイ派から信者になった数人の人々が,「異邦人も割礼を受けて,律法を守るべきだ。」と言い出して,議論が発生しました。使徒,長老たちは議論を重ねましたが,これに決着をつけたのが、使徒ベトロの演説でした。ベトロは,先祖たちも自分たちも負いきれなかった律法遵守の重荷を,人々に負わせることの非を説き,「わたしたちは,主イエスの恵みによってのみ救われると信じているのですが,これは,彼ら異邦人も同じことです。」と明言しました。これを聞いて全会衆は,静かになったのです。律法を守ることを救いの拠り所とすることは,神の恵みに背を向けることであり,主の十字架による赦しは,異邦人にも等しく与えられる,ということです。パウロ達がエルサレム教会に行く途中でも,人々は,異邦人もこの福音を受け入れたことを聞かされて,おおいに喜んだのです。
アンティオキア教会だけではなく,エルサレム教会においても,割礼の律法が必要だと主張する人々がいたことは,人間の自負と自力のおごりの深さを示すものでしょう。神は常に私達とともにいまし給い,赦しを与え給います。今朝,この礼拝が現実に行われていることも,主がまことに居られる証しであります。四国にある80余の教会が,日々信仰をもって歩み続けていることも,神の愛のお働きを示すものです。この恵みを感謝したく思います。