(10月6日)カナンの女の信仰

 イエスさまはガリラヤ北西の地中海沿岸のティルスとシドンという異邦人の地方へ行かれました。そのとき、一人の女の人がイエスさまに救いを求めて駆け付けたのでした。この女の人はカナン生まれのギリシア人でした。つまり異邦人(外国人)でした。自分の娘が悪霊にひどく苦しめられていて、何人もお医者さんに診てもらってもよくならず、どうにもならない状態でした。そんなときイエスさまがこの地方に来られたことを知って、必死の思いでやってきたのでした。女の人はイエスさまのもとに走り寄って「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊に苦しめられています。」と叫びました。ダビデの子、とは神さまがお遣わしになる救い主のことを指します。異邦人の土地にもイエスさまが病人を癒し治されたことが伝わっていて、イエスさまが救い主ではないかといううわさが広まっていました。が、この女の人はイエスさまこそ、うわさ通り救い主に違いない!と信じて、はっきりとダビデの子よ、と呼びかけたのでした。 ところが、イエスさまはこの呼びかけに何もお答えになりませんでした。女の人もあきらめず叫びながらついてきます。お弟子さんたちはイエスさまが早く奇跡を行ってくださったらすぐ女の人は立ち去るのにと思ったことでしょう。イエスさまに、この女を追い払ってくださいと言いました。でも、イエスさまはどちらの願いにもすぐにはお答えにならず、次のように言われました。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と。まことの神を知らされているにもかかわらず、それを忘れているイスラエルを救うためにわたしは遣わされている、と言われたのです。助けを求めている人に対して冷たい言葉に聞こえるかもしれませんが、この言葉の背景には、救いはイスラエルから始まるという旧約聖書の時代からの神さまの一貫したご計画がありました。 

 神さまはすべての人が救われることを願っておられます。そのためにまずアブラハムを選び、イスラエルの民と契約を結ばれました。この弱く貧しいイスラエルの民を救うことで神さまの愛の深さ豊かさ、広がりをすべての民に示してこられたのです。イスラエルが神さまに背き続けてもお見捨てにならず、悔い改めて神さまに立ち帰るように招き続けました。ついにはイエスさまをこの世にユダヤ人の一人として遣わされました。ですから、まずイスラエルの救いを立て直すのだとイエスさまは言われているのです。 それでも女の人はイエスさまの前にひれ伏してもう一度助けを願いました。しかし、イエスさまは「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」と願いを退けました。子どもたちとはイスラエルのことです。子犬とはこの異邦人の女の人のことです。子どもたちがパンによって十分満たされた後で、子犬の食事の順番がくるのです。食事に順番があるように、「神さまの救いはイスラエルの民から始まり、すべての民に広がっていく」ということをイエスさまは改めて教えられているのです。とはいえ二度も願いを退けられ、その理由が神さまの救いのご計画によるものだと聞かされたら、わたしたちならどうするでしょうか。あきらめてしまうかもしれません。恨みに思うかもしれません。 

 しかし、この女の人はあきらめませんでした。それどころか、異邦人である自分が子犬呼ばわりされたこともそのまま受け入れて、切り返して答えたのです。「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずをいただくのです。」と。女の人は自分が先に助けていただけるような資格のない異邦人であることも、食卓のパンをいただけるような者ではないことは知っていました。でも異邦人である子犬も食卓からこぼれ落ちてくるパンくずをいただくように、食卓からあふれるほどに豊かな神さまの救いのおこぼれをいただきたいと願ったのでした。わたしはその落ちてくるパンくずで十分ですから、あなたの憐れみによって、そのパンくずをわたしに与えてくださいと願ったのでした。イエスさまのことを信じて、何とか助けてほしいという必死の願いでした。神さまの救いのご計画の順序を知りながらも、それでもなおパンくずでもいただきたいと願う女の人の信仰を、イエスさまはお褒めになり、願い通り、女の人の娘の病気を治されたのでした。この神さまの祝福の豊かさにいち早く気が付いていた異邦人であるこの女の人の信仰をイエスさまはとても喜ばれたのでした。 

 このカナンの女の人のように、神さまの前に謙虚になり、神さまの恵みの豊かさを信じ、そして熱心にイエスさまの救いを求める者になりたいと願います。