11月3日

「神の栄光が現れるその時を望みつつ 」
11月3日礼拝説教 寺島謙牧師
ヨハネによる福音書 11章38~44節
 死んだラザロが、主イエス・キリストによって甦った物語である。ラザロが墓に葬られてから四日が経っていた。「四日」とは、ラザロが完全に死んだことを表している。そのラザロの墓に主は、「再び心に憤りを覚えて」来られた。この憤りとは、人間を絶望に追いやる死に対するものである。ラザロの姉妹であるマルタもマリア、それから弔問に訪れていたユダヤ人達は皆、死の力に捕らわれ、嘆き悲しみ泣く他なかった。だが主は、墓を塞ぐ「その石を取りのけなさい」と命じられた。マリアは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と主の言葉を遮った。とどのつまり、主イエスがここにおられてもどうにもならないと締めていた。しかし主はマリアに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と問い直されて信仰を求められた。そして主は絶望に瀕する人間に代わって神に祈られた。人間は神の似姿として造られ生かされている。この神を喪失している故に、人間は罪と死に滅ぶ他ない。だが主の十字架と復活によって、人間は罪を赦され、死の力からも解放されて、神が与えられる命に生きる者に変えられることをラザロの復活は明らかにしている。