水曜祈祷会奨励より 「聖霊を受ける」 寺島謙牧師
使徒言行録19章1~10節
今晩の聖書を読んで強く思わされたことは、聖霊のことである。聖霊が自分に与えられており、その聖霊の助けと力によって自分自身が信仰者として生かされ、歩ませられていることに改めて気づかされた思いである。 使徒パウロがエフェソを訪問した際のことである。パウロはそこで何人かの弟子(信徒)たちに出会ったというのであるが、パウロは彼らにはまだ聖霊が与えられていないことに気づいた。パウロが信徒たちに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねてみると、彼らは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えたのである。するとパウロは信徒たちのどこに聖霊が与えられていない現実を見抜いたのであろうか。詳しいことは聖書には何も書いていないのであるが、パウロ自身、聖霊の存在なくしては神を信じる生活はあり得ないことを強く知っていたのではないか。 では聖霊とは一体どのようなものであるのか。主イエスは、聖霊のことを「弁護者」と言われた。弁護者とは、裁判において訴えられている者を弁護する務めを担わされた者のことである。弁護者は弁護を任された者を守り、その人に代わって無実を勝ち取るために全力で弁護に当たるのである。聖霊はそのように全力で、我々の信仰生活を助け支え守って下さるのである。我々の信仰が失われないように、無くならないように聖霊が守って下さる。そういう意味において聖霊は「助け主」である。もし聖霊が我々に与えられていなかったなら、我々は自分の力で努力や精進によって、または人間の熱心によって神を信じて歩まなければならない。もし、そうであるとするならば、信仰は早晩、我々の中から消えて無くなってしまうに違いない。そしてそれは信仰とは言い得ないはずである。何故なら、信仰とは神が我々にお与えになられた恵みの賜物に他ならないからである。神が我々お選びになり、我々を信じる者へと変えて下さるのであり、それは神の-方的な恵みであり選びによるものであったはずである。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とキリストも言われた通りである。そして神は御自分がお選びになった者を信仰によって歩ませるために、聖霊をお与えになられたのである。 聖霊は、父なる神、そして子なるキリストを証しする霊のことである。「父、子、聖霊なる神」という言い方はそのことを表している。神は御自身を我々に顕されるために、イエス・キリストをお与えになられた。創造主でありただお一人の神であるお方が、天から降り、一人の人間となられたのである。これがイエス・キリストである。神はイエス・キリストにおいて御自身を我々に顕された。そしてキリストの十字架の死と復活によって、私たち罪人を赦し救い、神を信じて生きることを得させて下さったのである。だが我々は、自らの力で神を知ることも、イエス・キリストを信じ告白することは出来ない。そして聖霊の力によらなければ、キリストを信じて生きていくことは難しい。聖霊は我々の目に見えない存在である。だが我々の見えないところで、そして人間のあらゆる想定を超えて働いているのである。そして信じない者を信じる者へと造り変え、キリストと共に生きる者として導かれる。その聖霊の助けと導きによって、信仰を与えられ、信仰者として今日まで歩むことが許されたことを振り返って気づかされることがある。自分のような貧しい小さな器の人間がキリストによって選ばれ、そして豊かに用いられてきたことを、私たちは折々に気づかされることがある。人生山あり谷ありの連続であって、もう自分の力ではどうにもならないような苦難や敷難を誰もが経験させられる。自分の弱さ故に信仰生活、教会生活から離れていき、信仰そのものを失っても不思議ではなかったそのような試練や忍耐の時、自らの不信仰、罪の深さを思わざるを得ない場面をも経験する。普通に考えたら信仰がそこで終わってしまったり、教会から離れてしまうしかないそういう蹟きや壁にぶつかることも多くある。だが聖霊が与えられたということは、神の御心があるならば、今は信仰から離れているように見えても、また教会から離れてしまったかのように思えても、必ず聖霊は我々の信仰を守り、もう一度、イエスは主なりという信仰の告白を与え、その信仰によって生きる者にしてくださるという約束が神から与えられているということである。 この聖霊を、我々ほイエス・キリストの名によって為されたバプテスマを通して授けられている。洗礼は一度きりであるが、この洗礼を通して聖霊は確かに私たちの上に注がれているのである。試練の時も老いや病、あらゆる苦しみや悲しみ、挫折の中にも聖霊は働いて下さり、我々を助け、その生涯をイエス・キリストを信じる信仰によって歩み通させて下さる。インマヌエル、神は我々と共におられるという救いの約束を信じて生きる救いの道を歩ませて下さるのである。