説教(2021年7月月報より)

  夏に向けて,「山上の説教」と言われている,主イエスの説教を学んで行きたいと思います。以前は,「山上の垂訓」とも言われたこの説教は,直接的には,主の弟子達に向けて語られたものです。従って信仰をいただいている私達キリスト者に対して話されたものでもあるのです。
 「塩」は,地上で代る者の無い,最も大切なものの一つです。その塩気は必須であって,これこそ,塩の持つ使命とも言えるものです。これがなくなれば,外に捨てられて踏みつけられるだけです。同時に語られた「光」に関しても,同様のことが言えますが,勿論これらはキリスト者の在り方を示される言葉であります。今や,この地上の世界の混乱は,実に救いがたい状態です。いつわり,敵意,殺意,争い。私達個人にも,また教会にも,これらを抑える現実的な力はありません。どうすればよいのでしょうか?実に厳しい状況であります。
 しかしここで,はっきりと示されているのは,主イエスが,あなた方(私達)は,「地の塩である」,「世の光である」と,断言されたことです。これにも注意せねばなりません。「私は,とてもそんな器ではありません」と言わざるを得ない私達に対して,主は断言されたのです。そもそも,主の弟子達でさえ,私達と同様に欠けの多い存在でした。その彼らが,実に,「地の塩」「世の光Jとしての使命を果たすことになったのです。彼らの中に,主キリストの光があったのです。私達自身は,地の塩でもなく,その中に光はありませんしかし,私達が主の光に照らされて歩む時,私達の中にいまして、共に歩み給う主イエス・キリストが,光となって下さるのです。「もはやわれ生くるにあらず,キリスト我が内にありて生くるなり。」(文語訳聖書,ガラテヤ書2章20節)とは,使徒パウロの言葉です。彼が成し遂げた大伝道は,決して彼の人間的な力によったものではなく,彼の内にいまし給う,主イエス・キリストの霊の力によるのだ,と彼は述懐しているのです。信仰心溢れる詩人として,多くの作品を残した水野源三さんは,身体が動かず,寝たままの生涯を送った人でしたが,「私は何も出来ませんが,祈ることは出来ます。」と言つて,祈りに心を注がれた方です。
 私達には特別な力はありませんが,主を証するために,出来ることが残されています。これを用いて奉仕が出来るのです。この世に対して神を証するものは,教会以外にはないのです。その教会には,つまり私達には,主イエス・キリストが与えられています。主は,今日も私達の中にあって,働いておられるのです。この事を信じて進む時,無力な私達にも,必要なカが与えられるのです。この幸いを信じて,喜びを以て,主の業に励みたいものです。