主イエス、神殿税を納める(11月10日)

 神殿税というのは国へ治める税金のことではなく、エルサレムの神殿に納めるお金のことです。イエスさまの時代、エルサレムには神さまがおられると言われていた神殿がありました。その神殿に税金を納めていました。もともとこの税金の由来というのは、その昔エジプトから救い出し導いてくださった神さまに命の代償として捧げられた献金でしたが、そのあとの時代、バビロン捕囚から帰ってきた人たちが建て直した神殿のために納めなくてはならないような税金へと変わってきたのでした。ユダヤの20歳以上の大人の男の人が貧富にかかわらず同じに毎年納めることになっていました。

 イエスさまがペトロの家に滞在していたときのことです。家の外に、その税金を集める人たちがやってきました。ペトロはその人たちに囲まれて「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言われたのでした。ペトロの先生であるイエスさまはユダヤ教が大事にしている決まりを守らない人なのかといじわるを言われたわけです。これで納めないというと、ユダヤ教の偉い人からさらに睨まれてイエスさまが悪者にされてしまう、そして弟子である自分自身も悪く思われてしまう、とペトロは恐れたのでした。ペトロは「納めます」と答えました。

 神殿税の金額は2日分の賃金で、約2万円くらいでした。人目を気にして払うといったものの、ペトロは持ち合わせがなかったかもしれません。それに本当にイエスさまがお支払いくださるかなと心配していたかもしれません。そんなペトロが家に入ると、イエスさまの方から話しかけられました。イエスさまはペトロの心の中のすべてをご存じでした。「シモン、あなたはどう思うか?地上の王は自分の子どもたちから税金や貢物を取り立てたりするだろうか。それとも他の人たちから取り立てるだろうか。」と。この時代のローマ帝国でも王さまの子どもたちは税金を納めなくてもよいことになっていたので、ペトロは「他の人たちからです。」と答えました。イエスさまは「では、子どもたちは納めなくてもよいわけだ。」と言われました。つまり神殿税は神さまの神殿に対する税金なので、神さまの子どもであるイエスさまは納める必要がないと言われているのです。イエスさまを救い主と信じて従う弟子たちも、イエスさまによって神さまの子としていただいているので税金を納める必要はないのです。イエスさまのこの言葉によって、ペトロは神殿税を納めることから、イエスさまと同じように自由にされたのです。

 そもそも地上の王さまが自分のために税金を集めるのと同じように神さまが税金を集められたりするでしょうか、考えれば考えるほどおかしい税金です。しかし、イエスさまは払う必要のない神殿税を払うことにしました。「彼らをつまずかせないようにしよう」となさったからです。「彼ら」とは神殿税を集めに来た人たち、その背後にいるユダヤの偉い人たち、神殿に仕える祭司たちのことを指します。この人たちはイエスさまを妬み、殺そうとしている人たちでしたが、イエスさまはそのような人たちに対立して怒り憎しみを表すのではなく、愛の配慮を示されたのでした。これにより、ペトロは人々に対する不安や恐れからも自由されたのです。

 イエスさまはペトロにお命じになりました。ペトロは言われた通り、湖に行って釣りをして、最初に釣った魚から一枚の銀貨を見つけました。こうしてイエスさまとペトロの分として納める税金に必要なお金が、思いもかけない方法で与えられたのでした。

 ペトロも、そしてわたしたちも神さまの子としてくださって、イエスさまと同じ自由を与えてくださっています。この自由は人への憎しみや怒り、恐れから自由となり、隣人を愛し、隣人に仕える自由なのです。神さまに目を向けて歩むとき、イエスさまといっしょにこのように自由に生きていけるという道を備えてくださることに感謝したいと思います。魚の口から銀貨が一枚出てきたことは、神殿税という人の命の贖いのために、イエスさまが用いられることを意味しています。この後、イエスさまが十字架によってわたしたちの命を贖い、そのことによってわたしたちを神の子としていただいたことも、もう一度改めて心に覚えたいと思います