2022年4月17日

祈祷会奨励 説教題このことを信じるか」 寺島謙牧師

ヨハネによる福音書11章17~27節

 

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。これは、愛する者の死に直面し失い深い悲しみと嘆き、絶望の直中に置かれておりました、マルタという女性に対して告げられた、イエス・キリストの言葉であります。 マルタにはマリアという妹の他にラザロという弟がいたのでありますが、そのラザロが重い病に罹り遂に死んでしまったのです。それから四日が過ぎてラザロは既に墓に埋葬されておりましたが、多くのユダヤ人たちがベタニアと呼ばれる村にありましたマルタとマリアの家を弔問して姉妹を慰めておりました。そこへ、イエス・キリストもお出でになられたのです。マルタはイエスが来られたと聞いて、迎えに行きましたが、妹のマリアは家の中に座ったままでありました。おそらくマリアは主イエスが来て下さったとしても、兄弟のラザロの死は覆らない、もはやどうにもならない従って望みはないという諦めと絶望感に囚われていたのでしょう。 すると姉のマルタはどうであったかというと、聖書にある通りマルタは主イエスを迎えに行きましたが、気持ちはおそらくマリアと一緒であったのではないでしょうか。マルタは主にお目にかかると、こう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。マルタもマリアも信仰者でありました。神を信じてこれまで生きてきたのであります。そして主イエスを信じておりました。ですからマルタは、主よあなたがここにいてくださったら、兄弟のラザロは死なずに済んだはずだと言ったのです。でももうラザロは死んでしまった。墓に埋葬されて全く望みが潰えてしまった。もうどうにもなりませんという諦めの気持ち、そして主イエスを迎えに行かずに家の中に留まり続けた妹のマリア同様に、姉のマルタも絶望に囚われていたのではないかと思うのです。 私もこれと似た経験があります。祖父を病気で失いまして、教会で葬儀を行った時です。神さまを自分は信じておりましたし、キリストの復活を大事なこととして認識しておりましたし、死人の復活を信じて歩んできたつもりでありました。ところが祖父の死と直面させられて、復活が本当に分からなくなってしまったのです。死人の甦り、キリストの復活というけれども、どうにもならないではないか。一体復活がどのような励まし慰めを与えてくれるのか、自分を救ってくれるのか、本当に分からなくなりました。神を信じているのです。そしてキリストが甦られたことも信じている。でもそれが力にならないというか、生きたものにならない。やはり人間は死の前にどうにもならないのではないか。ある人が、信仰者が絶望するのは罪だと申しましたが、私は祖父を失ったとき、そういう意味においては本当に不信仰であり神を信じない罪人でありました。ただどうにも辛くて悲しくて、涙を抑えることが出来なかったのです。 しかし、今日の聖書は復活を信じることの出来ない、従って罪と死に絶望する他ない我々の所にキリストは御自分の方から来て下さったことを伝えているのではないでしょうか。そして主イエスがマルタに言われたように「あなたの兄弟は復活する」と言われるのです。ラザロは死んだのです。でも復活するとイエスは言われるのです。死が終わりではないというのです。復活という命が死の向こうにある。その命にラザロは与って復活するというのです。おそらく死人の甦りや復活の話をしたら、そんな馬鹿な話があるかと世の人々は思うでしょう。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。世の終わりの時に、生きている者だけではなくて既に死んだ者も甦って神の裁きを受けることをマルタは知っておりました。しかし、その復活はまだ先のことで、死んでしまったラザロはどうにもならないのではないか、マルタはそう思っていました。マルタはおそらく「あなたの兄弟は復活する」という、キリストの言葉を信じることが出来なかったのです。 しかし、そのマルタに主イエスがお答えになられたのが冒頭でお読みした聖書の言葉です。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。 今週の日曜日は主イエスの復活を祝うイースターの礼拝でした。十字架の上で死んで墓に葬られたイエス・キリストが甦られた。復活された。聖書に書かれているこのキリストの復活の出来事ほど私たちにとって信じがたいことは他にはないと思います。しかし、もし復活がなかったなら我々の人生は全部空しくなるのではないでしょうか。甦りがなく、我々の命や人生が死で終わるのであるなら、パウロが「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリント15:32)と言っておりますように、我々には生きる望みは何も無いのです。人生100年時代と言われていますが、私たちがどんなに長生きすることが出来るようになっても、結局死で自分の人生が終わるのならばそこには希望はないのではないか。死を待ちながら我々がただ病み衰えていく、それはつまらないのではないか、空しいのではないか。私たちは皆そういうどうにもならない空しさを抱えながら生きている。そしてどうすればその空しさから自分が救われるか、人生を最後の最後まで望みを抱いて生きることが出来るか、そのことを私たちは切実に求めながら毎日を生きているのではないかと思います。マルタもそうであったと思います。 そのマルタに、イエス・キリストが「わたしは復活であり、命である」と言われたのは、キリストこそ甦りを果たされた復活なさったただお一人のお方であり、キリストこそ復活の命に我々を与らせる救い主であるということです。復活はキリストを信じる信仰によって初めて知ることが出来、復活の命に生きることが出来るというのです。そこで何故、キリストが十字架にかかり死なれたのか、そして三日目に甦られたのか、その意味を考えなければなりません。それは、復活の命は神がお与えになられる命だからです。神は、私たちを決して死で空しく終わらせない。どんなことがあっても、私にはこの望みがある、復活という命に生きる希望によって神は私を導いて下さる。そのような神との交わりを与えられて私たちは生きる。この命をお与えになるためにキリストは私たちの身代わりとなって十字架に死んで下さったのです。そして神はキリストを復活させられたのです。主イエスは御自分を信じる信仰だけを求めておられるのです。 主イエスはマルタに「このことを信じるか」と求められました。これに対してマルタは、「はい、主よ、あなたが世にこられるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。マルタは主イエスに背中を押されるようにして、促されるようにして信仰を言い表すことが出来たのです。我々もまた同じようにキリストによって、復活の命を与えられ、その命に生きることを許されているのです。キリストはそのために甦られ、今も私たちと共に生きておられるのです。 ジェームズ・デニーという英国の神学者が、イースターの礼拝説教を準備するために書斎で呻吟しておりましたら、急に立ち上がって「イエスは、本当に甦られたと」叫んで書斎の中を喜び勇んで歩き回ったというのです。復活の主は、今も生きておられる。悩み苦しみ、そして項垂れてしまう私たちに近づいて来られ、「このことをあなたは信じるか」そのように復活の命に生かされていることを私たちに知らせて下さるのであります。