かつて,説教家として知られた,英国のスポルジョン牧師は,この詩編23編を「詩編の真珠」と呼んだそうです。世界中が新型コロナウィルス感染の拡大で苦しみの中に置かれている現在,この詩の中の「死の陰の谷を行くときも,わたしは災いを恐れない。」4節の一言は,私共の大きな慰めであり,励ましであります。私共の人生には,禍は少なくありません。この中を進んで行かなければなりません。それでも禍を恐れない,と詩人が言う理由は正に,「あなたがわたしと共にいて下さる。」(4節)という事実です。勿論,羊とは私共人間であり,羊飼とは神を指します。羊は近視だそうです。ごく近くしか見えません。これこそ,私共の状態です。一寸先は闇だ,とも言われます。明日の命がわからない無力さです。この現実に埋もれてしまうと,あの愚かな金持(ルカによる福音書,12章16節以下)のようになるのです。沢山の食物・財産を手にした人が,それだけを頼って楽しもうとした時,神が語り給います。「愚かな者よ,今夜,お前の命は取り上げられる。」私共の命は,神が下さったものです。決して,自分で得たものではありません。私共が真に求めるべきものは唯一つ,神のみなのです。
私共に,明日を用意して下さるのは,神です。そして「魂を生き返らせて下さる。」(3節)のです。神は,常に私共と共に歩んで下さるのです。時として,私共には,これが単なる気休めに響くこともあります。ほんとうなのだろうか?と。しかし,この詩をよく読むと,これは詩人の実際の体験から出た言葉であることがわかります。詩人ダビデは,自分の波乱万丈で,かつ豊かな人生体験から,これらの言葉を語っているのです。詩人の言葉は,揺るぎない神への信仰(信頼)そのものです。主なる神は,真に私共と共にあって働き給う方なのです。
この神は,その独り子をお与え下さった程に,この世を愛して下さった方です。(ヨハネによる福音書,3章16節)このことを,一番深く知っておられたのが,独り子であられる主イエスです。その御名は「インマヌエル」と呼ばれ,これは「神は我らと共におられる」という意味であると,聖書に書かれています。実にその通りでした。主イエスは我々罪人のために命を捨てられました。そしてこれを通して,神の愛を示されました。私共の人生には,苦しみが多くあります。これら全てから逃れることは出来ません。しかし,その我々と共に,主が必ず共にいて下さる。そしてその苦しみを共に負い,慰めと励ましをお与え下さるのです。現実的には,聖書の言葉が我々を導くのです。聖書の言葉こそ,詩の中にある「あなたの鞭,あなたの杖」です。今こそ,我々は,心から神を求める時です。