創世記11章1節~9節
創世記の3章8節には次のように書かれています。「主なる神が風の中を歩く音が聞こえてきた。」
わたしは、それがどんな足音だったか想像してみました。その時に思い出したのは、昔教会学校の夏期学校で登った皿が峯の光景です。ススキが一面に生えていて、風が吹くとサラサラという心地よい音がします。空気が澄んでいるからでしょう。100メートルも離れた遠くにいる仲間の声がはっきりと聞こえてくるのです。
神さまの足音は、きっと風が吹いてくるような音だったと思います。もしかしたら、その音を聞いたアダムにとっては、霊的な実感であったのかもしれません。私たちも静まって霊的な音を聞いてみたいと思います。
人間は、神さまの似姿として創られました。それは、理性や知識のみが似せられたのではなく、愛し合う存在として似せて創られたのです。神さまは、アダムと後から創られたイブの二人に、楽園のどの木からもその実を食べてよいという自由を与えられました。それと同時に、善悪の木からは決して食べてはならないという約束も与えられたのです。ところが、アダムとイブの二人はヘビにそそのかされて、善悪の木の実をとって食べてしまったのです。この約束は、神さまの二人に対する愛から出た約束だったはずなのです。ところが、二人は、神さまとの約束を破ってしまいました。「慮(おもんばか)る」という言葉があります。「相手の事情や周囲の状況について十分に思いを巡らせる」あるは「相手の気持ちを察する」という意味の表現ですが、二人にはそれができませんでした。神さまの愛に対して十分に思いを巡らせたり、神さまの気持ちをお察しするということができなかったのです。
ヨハネ伝13章には、「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの言葉が記されています。愛し合いなさいとは、相手を慮りなさいということです。そして、神さまこそが、互いに愛し合うということを実践された方でした。イエスさまが十字架に掛かることは神さまにとっても辛いことでした。しかし神さまは、イエスさまのお心を慮られ、十字架への道を歩まされました。その犠牲とイエスさまの復活があって、人間はアダムとイブの犯してしまった罪を赦されたのです。神さまがイエスキリストを通して与えてくださった十字架への道は、神さまが示してくださった本物の愛の姿なのですね。