主イエス、山上で姿が変わる(10月27日)

 今日の聖書のお話は、「主イエス、山上で姿が変わる」というものです。
 イエスさまは、ペテロとヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて、山に登られました。すると、さっき読んでいただいたように、不思議なことが起こりました。なんとイエスさまの姿が変わったのです。顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。さらにモーセとエリアといったイエスさまの時代よりもずっと前、その時にはとっくに亡くなっていますが、超有名人が現れ、イエスさまとお話をされているのです。弟子たちにとっては、きっと3人ともそろって光輝いて見えたことでしょう。ペトロ達はあまりの光景に感激して、きっと幻を見るような気持ちであったに違いありません。そのとき、光り輝く雲が現れてイエスさま達3人を包み込みました。恐ろしくなったペテロ達は、ひれ伏しました。そして、イエスさまの「起きなさい。恐れることはない。」という言葉に我に返って顔を上げると、そこにいるのは、光り輝くイエスさまではなく、普段見ているいつものイエスさまであったというお話です。

 このお話を読んで、ふと自分の頭をよぎったのは、イエスさまの光輝く姿、そしてその姿が雲の中に包まれたわずかの間に消えてしまったという幻のような出来事というのが、いったい何を表しているのだろうかという疑問です。

 イエスさまは、普段は粗末な服を着て、みすぼらしい姿をしていたことは間違いありません。きっと日ごろの苦労や苦悩のために顔もやせこけ、きっと実際の年齢よりも老けて見えた。確か聖書の中にもそのような記述があったように思います。そのお姿は、実に私たちに似ています。私たちも時にいろいろな苦労や苦悩に悩まされ、苦しげな表情をしていることに自ら気付いたり、周りの人に悟られたりすることがあると思います。そんな時に、いや、そんな苦悩の時に限ったわけではありません。いつもの日常のふとある瞬間に、こんなことを考えることがあります。だれもが考えることでしょう。自分は死んだらどうなるのだろうという疑問です。もちろん、わたしもキリスト者の端くれですから、天に召され、キリストの再来の時に眠りから覚まされ、復活する。そういうキリスト教でいう常識は、少しは理解しているつもりです。しかし、常に悩まされるのは、死んだら消えてなくなってしまうのではないか、という疑いです。されに、悩まされるのは、自分が死んだ時には、この世界も存在しなくなるのではないかという、何とも自己中心的な考えです。私たちが生きている現実というのは、幻の世界で、自分の死と共になくなってしまうのではないかという、恐ろしい思いです。自分が消えてなくなってしまうというよりもさらに恐ろしい考えですが、きっと誰でも一度はそんなことを考えるのではないかと思います。

 そんな不安な思いを振り払ってくださるのが、今日のお話の中で出てきたイエスさまの光り輝く姿です。イエスさまの光り輝く表情やその姿を想像した時、私たちにもそのように輝くときがあるのではないかと思えてきました。わたしは、教員をしていますので、たくさんの子ども達と生活を共にしています。先日、特別支援学級やさらに重度の子どもたちが通う特別支援学校の子どもたちが集う「○○体育大会」というイベントに参加しました。○○市の大部分の小中学校が参加しており、総勢700名、教員や保護者を合わせると1000人をゆうに超える人が集まり、〇〇スタジアムの隣の○○館で開催されました。うちの学校もほとんどの子どもが参加しましたが、そこでは、さまざまなドラマを見ることができました。
うちの学校には、クラスは違いますが、たいへんな暴れん坊の1年生がいます。2学期から特別支援学級に通うようになった子どもで、1学期は通常のクラスに在籍していました。じっと座っていることができず、フラフラと動き回ります。○○館には2階に観客席があるのですが、その子はその椅子に座っていることができません。すぐに立ち上がって動き始めます。立ち入り禁止のテープも目に入りません。勝手に乗り越え、その先は、およそ5メートルも高度差がある競技場のフロアに墜落することがないように設置されている手すりがすぐ前にあるのです。私たち教員は、彼が立ち上がる度にひやひやし、彼の暴走を止めるために、5人の引率教員が、暗黙のうちに交代しながら、順番に彼につきっきりで見守りました。何とか、怪我無く時間が過ぎ、彼も、出番のかけっこにはぎりぎりセーフで参加し、2位になる力走をしてくれました。

 また、彼とは、逆に動かない子もいます。男の子ですが、遅刻して、お母さんと一緒に会場に現れました。彼は、せっかく競技場にやってきたというのに、競技に参加しようとしません。運動神経抜群の男の子なので、みんなと一緒に参加するように、ぎりぎりまで説得に当たりました。気持ちが揺れ動いているのが分かる表情も何度かしてくれましたが、結局彼は、どの種目にも参加せず、上の観客席からみんなの活躍の様子を見ているだけでした。ただ、機械好きの彼は、ビデオをとることには興味を示し、700人の小中学生がそろってみんなが楽しそうにダンスを踊っている様子を懸命に録画してくれました。また、さっきお話した立ち入り禁止のテープを回収する仕事を、みんなが観客席に戻ってくるまでの間に、快く手伝ってくれました。

 その二人の子どもの姿が光り輝く姿に変わったわずかの時がありました。1年生の男の子がかけっこで真剣にゴールに向かって走っている姿、そして6年生の男の子が、ズームを一杯にきかせて、友達の姿をできるだけ大きく映そうと、懸命に手振れと闘いながら、映像を撮っている姿です。その姿は、確かにイエスさまと同じように光り輝いている姿でした。

 その大会の翌日、昨日の話ですが、彼らは二人ともそろって登校しました。1年生のやんちゃ坊主は、昨日も同じく授業中も教室を抜け出し、とかげやかまきりを追いかけていたことと思います。一方動かない6年生の男の子もいつも通り遅刻をして登校しました。そろって、いつもの日常の姿に戻ったのですが、その日常の姿こそ、一番大切なものだと思います。私たちは、よりよいもの、より値打ちのある行為を求めてしまいます。子どもに対してもそうですし、自分自身に対してもそうなのです。

 大会当日、やんちゃ坊主に付き添って、彼の言われるままに、かれの手を引きずって歩きました。右に行って、左にって、まっすぐと命令を出す彼に付きそって、会場の通路を歩く老年教員の姿は、みんなの目にどう映ったことでしょう。動こうとしない6年生の彼に付き添って、二人だけぽつんと観客席に取り残され、ビデオのモニター画面を懸命に見つめている不思議な老若のペアを、周りの人はどう見たでしょう。1000人を超える参加者の中では、実に当たり前の光景で、だれも奇異には感じない当たり前の光景であったに違いありません。しかし、子どもたちや彼に付き添う教員の姿、そして観戦に来た保護者の姿は、きっと光り輝く雲に会場ごと包まれていたに違いありません。当たり前の日常こそ、神さまが私たちに備えてくださっているかけがえのないプレゼントなのです。

 日々苦労や苦悩に包まれる私たちですが、一番大切なことは、今という日常を、神さまを信頼して真剣に生きることではないかと思います。死んだらどうなるかとか世界は残るのかとか言った不安は、消えることはきっとないと思います。しかし、自分は、神さまがきっと備えてくださると思います。私たちは、天に召された先達の皆さんに直接にお会いすることはできません。しかし、心の中に思い出として残っており、こんな時ならこんなアドバイスをしてくださるだろうと想像することができます。心の中で対話をすることができるのです。また、自分が死んだ後も、自分の子どもや孫たちの記憶に残ってくれているならば、彼らの心の中で対話をすることが可能なのだと思います。体は消えても、心は残るというのは、きっとそのことなのでしょう。さらにありがたいのは、キリスト教では、再臨の時には、みんなが天の国に引き上げられ、天に召された者同士が再開できるという報せがあることです。自分の教え子、子どもや孫も、いずれ年をとると天に召されることでしょう。考えたくないことですが、それは当然のことなのです。どんな姿で再会できるのか、考えてみれば楽しみであり、うれしくなってきます。そんな時が来るのを信じ、自分も与えられた命を大切にして、力一杯に生きていこうと思います。

 最後に祈ります。神さまは、光り輝く姿を通して、その無限の力や可能性を、私たちに示してくださいました。私たちは、時に神さまのことを信じられなくなります。また、神さまから与えられた豊かな恵みを当たり前としか感じられなくなり、感謝を忘れてしまう時のある愚かな存在です。そんな私たちですが、どうか神さま、私たちを赦し、神さまの御用のために、忍耐強くお用いくださることを心から願います。この一言の祈りをイエスさまのお名前によって御前にお捧げします。アーメン。