主イエスにしたがう(10月20日)

今朝の聖書の物語は、イエスさまが突然、御自分の将来について話し始められたそういう場面です。「『イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている』そう弟子たちに打ち明け始められた」というのです。この「打ち明け始めた」というのは、こっそり、弟子たち以外の他の誰かに聞かれないようにということです。そのようにイエスさまは弟子たちだけに、これから御自分がどうなるかお話になられたのです。そのお話ほ弟子たちにとっては大変ショッキングな内容の話しでありました。自分たちがお慕いし、愛して従って来たイエスさまが「必ず」エルサレムに行かれて、そこでユダヤの長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けられて殺されてしまうというのです。 

それで弟子たちは驚いて、一番弟子のベトロがイエスさまを脇へお連れして「いさめはじめた」のです。いさめるというのは、目上の人に忠告する、戒める、諭すということですが、ベトロはイエスさまの上に立って、今で言えば上から目線で、強い口調で「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と訴えました。ぺトロは正直にイエスさまに対する自分の気持ち、思いをこのようにイエスさまに伝えたのです。 そうしましたら、イエスさまが振り向かれて、ベトロにこうお答えになられました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」。サタンというのは「悪魔」のことです。悪魔は、天の父である神さまから私たち人間を引き離そうとする、そして神さまから与えられた命を失わせようとする存在です。一体何故イエスさまはベトロのことを「サタン」と呼ばれたのでしょうか。実は、イエスさまが弟子たちに、御自分がまもなくしてエルサレムで多くの苦しみを受けられて殺される、十字架に架けられてその命を失われる、死なれると言われたのほ、イエスさまの個人的なお考えや思いではなくて、それは神さまの御心、御計画によることであったのです。その神さまの御心に従われてこれを果たされるために、イエスさまは「わたしは必ずエルサレムに行って、そこで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される」、十字架の上で死ぬと言われたのです。 

するとイエスさまをそのように十字架で死なせる、神さまのお心とは何だったのでしょうか。それはベトロを含む12人のお弟子たち、そして私たち全ての人間のためであったのです。 私たちは一体どのようにして今この時を人間として生きているのでしょうか。実はこの大切なことは誰にも分からないのです。皆さん、自分を産んでくれたお母さんが必ずいますね。そのお母さんにもお母さんがいた。そうやって元を辿っていきますと、人間はどこから来たのか、分からなくなるのです。でも聖書は私たち人間が天地を造られた神さまの似姿として造られ、神さまから命を与えられ生かされている存在だと教えています。そうなんです。私たちはお父さんとお母さんの間から生まれた。でもそのお父さんもお母さんも皆、神さまからかけがえのない命を与えられ生かされている一人なのです。目には見えない。でも全てを支配しておられる神さまの御支配、その深いお心が実は私たち一人一人の人間の命と生涯に及んでいるのです。人間は土の塵から造られていますから、段々と衰え病み、そして死んでまた塵に帰って行きます。地上の何十年かの生活にはまた色々な労苦があり、試練があり、思い悩みや悲しみもあります。そういうことを私たちは内にも外にも抱えながら生きていかなければならないですね。でもその中に私たちの命をいつでも生かして下さり導いておられる神さまの御意志があるのです。私たちを祝福し、さあ私と一緒に生きようと呼んでおられる。神さまが共におられ生きる喜びと希望を与えるために一緒に歩んで下さっておられる。そのことを忘れないで自分に与えられた命を感謝して生きる。これが神さまに生かされるという命です。 

実は神さまは最も良い道を私たちに備えてそこを歩ませようとしておられる。私たちはすぐに道に迷います。でも神さまはそういう私たちを正しい道へと誘って下さる。私たちは実は弱い羊のような存在です。羊は一人でほ生きていけません。私たち人間も同じです。神さまほまさに羊の世話をしてその命を守り養い導く牧者、羊飼いなのです。ところが、私たちは、その命を生かしておられる神さまの元から離れたのです。神さまに背を向けて、自分一人で生きていこう、そうすることが出来ると倣慢に考えて、羊飼いの神さまの元を飛び出してしまいました。これが人間の罪です。人間の罪が今、世界中を破壊しています。戦争は終わりません。神さまがお与えになったかけがえのない命を人間は互いに傷つけ合い、殺し合っています。人間同士の不和や対立、争い、不正、イジメや虐待、人間の命が本当に軽んじられています。まさに私たち罪人は、見失われた一匹の羊のごとくその命を死と破滅によって失おうとしています。 

でもその私たち罪人を神さまは見捨てないで、御自分の方から私たち見失われた者たちを捜し求め、見いだして救うために天からこの地上に降って来て下さったのです。それが人となられたイエス・キリストです。イエスさまはこの神さまのお心を行われるために、御自分の命を、罪無き神の子の命を私たちの身代わりとなってあの十字架に捨てると、ベトロたちに話されたのです。その神さまのお心をベトロは拒み、遮ったので「サタン、引き下がれ」と戒められたのです。実は、サタンの見えない力がベトロたちを神さまのお心から引き離して、神さまを見失わせようとしたのです。 しかし、イエスさまはそのサタンの魂胆を見抜かれて、これを打ち砕かれたのです。自分は、必ず十字架に死ぬと言われました。そして見失われた全ての罪人を十字架によって赦して贖う。救うと言われたのです。そしてあなたがたを必ず天の父なる神の元に導くと約束されました。イエスさまは十字架の上で死んで、三日目に「復活する」と言われましたが、このイエスさまの復活こそ私たちの救いです。私たちはイエスさまの十字架によって救われて神さまの側で永遠に生きることが出来る。 だからイエスさまはこう命じられるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。イエスさまが私たちをまるごと救ってくださるのですから、もう自分で自分がという生き方、自分のためにという生き方はもう必要ないのです。イエスさまが全部引き受けて下さる。だから自分を捨てて、イエスさまに委ねてしまう、これが自分を捨てるということです。でも自分を捨てるということはなかなか出来ない、私たちには本当に難しいですね。やはりその戦いを私たちは生涯をかけてしていかなくてはならないと思うのです。一度自分を捨てたからこれでもう安心ということにはならない。やはり具体的な現実を通して、自分を捨てるということがイエスさまから問われる。その度事に、自分を捨てる十字架を持たないといけない。ある人は、病気という十字架を負わなければならない。病気が重ければ重たいほど、私たちは苦しい、辛い思いをしなければならない。でもその苦しみから逃げないで、イエスさまがこの私の全部を十字架によって引き受けて下さったのだから、そのことを信じて、イエスさまに信頼して自分の一切を明け渡す。神さまの御心を信じて生きる、そういう決断がイエスさまから求められている。だからやはり自分の十字架というものがあるのです。その自分の十字架に自分を捨てて、そして負っていく。イエスさまがこの私のためにあの十字架に命を捨てて死んで下さった。もう自分の一切が、罪さえもイエスさまが引き受けて下さった。そして復活の命へと導いて下さっておられる。だから私もイエスさまの十字架をもう一度信じて、そして自分に与えられた十字架を背負ってイエスさまに従って歩もう。そういう命に私たちは、生きることが出来る。そしてイエスさまに導かれながら天の国へと至る救いの道を歩んで行くことが出来るのです。 

皆さん、それぞれに自分の十字架をイエスさまから与えられています。その十字架を、イエスさまが一緒に背負って下さることを忘れないで、神さまからいただいたかけがえのない命を感謝して生きたいと思います。