(9月15日)たねをまく人のたとえ

 イエス様がガリラヤ湖のほとりに座っていると、たくさんの人が集まって来ました。そこでイエス様は船に乗って少し漕ぎ出し、腰を降ろして舟から陸地にいるたくさんの人々に向かって種をまく人の例え話を始めました。 日本では種まきというと、例えば朝顔のように、土に指で穴を開けて、一つずつ種を入れて、育てていきます。けれども、ユダヤの種まきは、まず、種を一握りずつ撒き散らし、そのあとで、土を耕すという方法をとっていました。そのため、風に吹かれて、いろいろなところに、種は飛んでいきました。 ある種は道端に落ち鳥が食べてしまいました。 また、ほかの種は石だらけで、土の少ないところに落ち、すぐ芽を出しましたが、太陽が昇ると熱くなり、焼けてしまって、根がないために枯れてしまいました。 また、ほかの種はいばらの間に落ち、いばらが伸びてそれを塞いでしまい、育ちませんでした。 ところがほかの種は良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなりました。
このたとえ話で、種をまく人はイエス様。種は、み言葉。四種類の土地は、私たち人間の心を示しています。 「道ばた」で鳥に食べられてしまった種とは、み言葉を聞こうとしない人のことです。心を神様の方に向けないでいると悪いものが来て、種が奪われてしまうのです。 「石だらけの土地」に落ちた種とは、み言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れますが、何か嫌なことがあったり、苦しいことがあったりすると、神様のみ言葉なんて何の役にも立たないと、すぐにつまずいてしまう人のことです。 「いばらの地」にまかれた種とは、み言葉を聴くには聞くのですが、それよりも自分が楽しむことやお金のことで心がいっぱいになって、神様のことを忘れてしまう人のことです。 「良い土地」とはみ言葉をしっかり聞いて悟る人のことです。「悟る」とは「気づく」という意味があります。何に気づくかというと、「これは自分のことだ」ということです。「このみ言葉は、私のために命を注いでくださったイエス様が、私のために語られた言葉だ」とはっきり気づく人のことを「言葉を悟る人」といいます。 私たちの心の中はもともとよい土地ではありません。 道端であったり、石の上であったり、いばらの中であったり、み言葉の種の成長を止めてしまう「弱い心」が私たちにはあります。けれども。その心を手入れし、鳥を追い払い、石やいばらを取り払ってくださっている方がいます。イエス様です。イエス様は毎日私たちの心にみ言葉の種をまき続け、まかれた種が豊かな実を結ぶように毎日手入れをしてくださっているのです。今日もイエス様は私たちの心の中にみ言葉の種をまいてくださっています。たとえ私たちの心が道端や石の上やいばらの中であっても、イエス様は鳥を追い払い、汗を流して重い石を取り除き、痛みながらいばらを刈り取り、よい土地になるように、私たちの心を耕し、整えてくださいます。このイエス様の痛みや苦しみは誰のためのものでしょう。イエス様は命をかけてわたしたちを愛してくれているのです。 イエス様が汗を流し、血を流し、痛みに耐えたのは私のためだ。お金もない自分自身の為だと気づいたとき、心の中の種は芽を出し、成長し、緑の時を迎えます。 そして緑に向けて成長を続けている間も、片時も休むことなく、み言葉の種は、まかれています。その実りは、百倍、六十倍、三十倍にも及ぶのです。 今ここに5人の人がみ言葉を聞いています。そのひとりひとりの心にまかれたみ言葉の種が、成長し、実りの時を迎える頃には、なんと三百倍から千倍にも増えるのです。 今日も世界中で数え切れないほどたくさんの人にみ言葉の種がまかれます。その実りは、私たちの想像の範囲を大きく超えたものとなります。未来のために種まきをやめることはできません。 私たち一人一人の心の種がどのように成長し、いつ実りの時を迎えるのか、本人には分かりません。けれども、たった一人その実りの時を知っている人がいます。イエス様です。その実りの時を知っているからこそ、喜んで今日も種をまき続けてくださっています。その喜びの実りの日に向けて、私たちは今日も、自分自身の心を柔らかく耕してみ言葉を聞いて悟る人になりたいと思います。