説教題 「父なる神から遣わされた方」寺島謙牧師
ヨハネによる福音書 7章25~31節
待降節を迎えた。待降節は「来る」という意味であるが、救い主が来るのを待ち望みつつ生きることを待降節は我々に求めている。ところで救い主は一体どこからやって来られるのか。主イエスがエルサレムの神殿において人々を教えておられた時である。既に主はユダヤの議員達によって命を狙われていた。だが主が公然と話しているのに、彼らは何も手を出さないことを訝しがる一部の人々が、議員達はイエスをメシアと認めたのではないかと言い合った。だが人々は、イエスがナザレ出身の大工の倖であることを自分達は知っていると言って、主を信じなかった。だが主は、自分が勝手に来て福音を宣べ伝え、悔い改めを求めているのではないと反論された。主は御自分を遣わした方は真実なお方であり、誰もその方のことを知らないが、私はその方を知っており、この方が私を遣わしたのだと言われた。このお方とは天の父なる神である。神がその独り子である主イエスを世にお遣わしになり、御自分に背く全ての罪人を赦し救うために、独り子を十字架の犠牲として、贖いを成し遂げられることを決意された。待降節は、イエス・キリストの誕生を待つ喜びの時である。