説教題 「子と親」芦名弘道牧師
創世記29章31節~30章24節
マタイによる福音書7章7~11節
ご紹介いただきました、近永教会の芦名でございます。どうぞ宜しくお願いいたします。この松山城東教会にお招き頂きますのは、今回で4回目でして、さてこの度は何をお話ししようかと、随分悩みました。で、最近、私が、自分自身のことで考えさせられていることがありまして、それは、実は、これから聞いて頂くとお分かりになると思いますが、私だけではなくて広く人間に、ですからお集まりの皆さんにも、きっと当てはまるところがあることです。人間を家に擬えれば、その土台に関係することです。それを整理してお話ししてみます。で、それを一言で言えば、自分の気質、たちです。それが何によって形作られるのか。そして、その自分をどう生きて行けばいいのかということです。
まあ、私たちは毎日、色々なことに向き合わせられながら、色々な人とお付き合いしながら暮らしております。その一つ一つを受け止めて、対処しています。自然のうちにしているわけですけれど、その物事の受け止め方に、自分の持って生まれた気質が表れているというか、深く影響しています。そして、その気質は人それぞれに違うわけでして、その違いが、お互いのちょっとしたすれ違いから、延いては、本当に深く傷つけ合うような深刻な軋轢をも生むことになります。どうしてこんなことになってしまうのだろうと、人との関わりの難しさに悩んだことのない人は、一人もいないと思います。その「どうして」を落ち着いて振り返ってみますと、相手がどうかとか、状況や経緯がどうかだけではなくて、実は、自分自身の中に、それを生んでいる原因の一端があることに気がつきます。今日はその部分に光を当てて、ご一緒に考えてみたいと思っています。
その入口に、小さなエピソードをご紹介します。私がおります教会は、この教会と同じように教会学校を開いておりまして、日曜日の朝に行っています。一昨年まで、小学生の女子が一人毎週来ておりました。うちの信徒の方のお孫さんで、その方に連れられて来ていたのです。ある年の5月半ばの日曜日、その日は、来た時から何とも不機嫌そうで、礼拝の最中も落ち着かないのです。そして、終わるなり「ああ、嫌になった」って、大きな声で言うのです。それで私は、「ああ、やっぱりそうか。おばあちゃんからの誘いを断れずに、引っ張って来られているんだなぁ」と、つまり、教会に来るのが嫌になったと、思わず言ってしまったのだと受け止めたのです。ですから、その子から見ればおばあちゃんの側にいる自分も、半ば責められているような気持ちで聞きました。
ところが、それから5分ほどして、「あれっ」と思ったのです。実は、その子はアトピーのある子で、春先には毎年花粉症に悩まされているのです。それを思い出しまして、「ああ、『嫌になった』と言ったのは、鼻がつまって頭がボーッとして、それが嫌になったということだったのだ」と。まあ、考えてみれば、いくらおばあちゃんの誘いとはいえ、嫌々でならば毎週欠かさず来るなんていうこと、ないわけです。自分の受け止め方が、おかしかった。
私をそういうふうにさせたのは、私のたちです。それがどこから生まれているのかについては後に申しますが、人の言葉が何でも自分に向かっている、しかも厳し目に向って来ているように、過敏に受け止めてしまう癖がありまして、それが聞き違えさせたのです。もし、それに私が気づかないままでいたら、そのすれ違いは、その子と私の後の関係に、きっと暗い影を落とすことになったことでしょう。こちらは疑心暗鬼になって、向こうも次第に付き合いづらくなって、ついには教会学校に来られなくなっていたかもしれません。
まあ、そんな風に、自分のたちというものは、何気ない日常の一コマに表れておりまして、それが結構深刻な問題の始まりになっていたりもするのです。その自分のたちがどこから生まれているのか。その辺りを、先ず聖書から聞いてみたいと思います。
今ほど読みました聖書の始めの方、旧約聖書の中から少し長めに読みましたが、印刷をお持ちの方は是非お手元に開いて下さい。ここには、ヤコブという人に子どもが与えられて行く経緯が書かれています。全部で12人、内一人は女の子です。で、ただ紹介しようというだけのことならば、それぞれがどういう名で、どんな人だったかくらいのことで良さそうなのに、その生まれるまでの経緯が、人によっては随分と詳しく書かれています。ここをじっくりと読みますと、実に色々なことを考えさせられます。
先ず思いますことは、自分にも親がいるということです。これほど分かり切ったこともないのですけれど、改めて、そうなのだと思います。自分が産まれて来るについては、やはり親に、親としての思いがありましたし、そしてそれは、当然生まれた時だけのことではなくて、その後もズーッと自分について来ているものだと思います。
まあ、事情がおありで、産みの親と育ての親が違う方もおられます。家庭の事情で養子縁組をされたり、施設に預けられたりということもあります。それでもやはり、自分に思いを寄せて下さる方々に手をかけていただいて、育てられるわけでして、ただ自分だけで育って来た人はいません。ですから、親や、それに代わる方々の子への思いということでは、普通は悪いことはあまり考えませんし、考えたくはないものです。勿論、よく「子育てに正解はない」と言われますように、どれも完全とは言えないでしょう。でも、それでも自分は精一杯の愛情の中で育てられた。また、育てる方も、それなりに情愛を注いで来たのだと思う。それは勿論、事実その通りです。
ですけれども、今日のこのヤコブの二人の妻、レアとラケルという姉妹です。で、ここで念のために申し上げておきますが、この当時は一夫多妻もあり得る社会でしたので、その点は今と違うことを頭の片隅に置いて頂いて、お聞き頂きたいと思います。しかし、それにしても姉妹を娶るというのは特別なことです。これには、こうする他はないちょっとした事情がありました。で、その二人の妻たちが、ヤコブとの間に子を設けて行く、その思いというものは、ある人が申しているのですが、実に人間臭いものです。聖書にもこんなことが書いてあるのかと、内心驚かれる方もいらっしゃることでしょう。そして、ここには、こんな風な親の下に生まれる子はあまり幸せではないだろうなと、誰もが思うようなものが、実際に動いています。
先ず、始めの29章31節から、印刷の始めの、文章の頭に31と番号が振ってあるところです。そこから後をご覧頂きますと、姉のレアが四人の男の子をヤコブに産んで、名前をつけたことが書かれていますが、そのどれにも、彼女とヤコブの随分と暗い関係が映し出されています。例えば32節には、長男をルベンと名付けた理由が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない。」と。まあ、元々ヤコブは、妹のラケルを愛していたのです。姉のレアとは、結婚したいとは思っていませんでした。ところが、彼女たちの父親の策略で、レアをも娶らなければならなくなってしまったのです。ですからレアの方は、自分は夫に顧みられていないと、いつも思い続けていたことでしょう。
で、一方のラケルには、夫の寵愛を一身に受けていながら、なぜか子が出来ない。そんな中、自分の方に先に子が出来たので、「これで少しは夫も自分の方を愛してくれるようになるだろう」と、気慰めというか、そういう思いをこの子の名前に託しました。後の三人にも、同じような名付け方をしています。そして、続く30章、30と大きな数字が書いてあるところの後ですが、そこに入りますと、加えて、二人の妻同士の妬み合いによる争いが、次々に子を設けて行くことになります。そして、その時々の母の気持ちが、子どもの名前を決めて行きます。この、とても複雑で暗い面を持っている家庭の環境が、生まれてくる子どものたちに、影響しないはずはありません。
人間の人格の一番の基礎が、どの時期に作られるのかはわりとはっきりしておりまして、乳幼児期だと言われます。殊に、生きる上での安心感とか、人への信頼の気持とか、愛着とか、人格を木に擬えれば根っこの部分に当たるものは、3歳までの間に、特にお母さんとの間に安心した関係が結べるかどうかで、ほぼ決まると言われます。これは、最近富みに明らかになって来ていることで、昔から「三つ子の魂百まで」とよく言われてきましたが、それが実に正しかったということが、今証明されています。
でも、お母さんとの関係と一口に申しましても、それはただお母さんの人柄とか、性格とかだけで決まるのでは勿論ないわけでして、このレアやラケルのように夫との関係がどうか、また、もう少し広く嫁ぎ先のお舅さんとの関係とか、親族の空気です。そういうものに、意識するとしないとに関わらず影響されるわけで、それが子どもの成長に、いろいろなものを投げかけることになります。で、そのことについて、先に、後にお話しすることになると予告しました、私自身のことを申し上げてみます。
私の母親の育ち方、そして結婚、それから私を育てる子育ての道は、結構複雑でした。母は、キリスト教とは無縁の家庭に生まれ育ちまして、自分の両親の姿から、そもそも結婚についてあまり良い気持ちを持っていませんでした。それで、母は洋裁の職人だったのですが、その身に付けた技術で稼いで、独身のまま母親の面倒を見るのだと、決め込んでいたらしいのです。
ところが、ある時教会に行き出して、洗礼を受けたことが切っ掛けで、突然牧師の末っ子との縁談が持ち上がりました。で、色々ありましたが、結局嫁ぐことになったのです。で、嫁ぎ先は、夫の兄は牧師、姉たちも牧師の妻とか、キリスト教系の大学教授の妻とかが居並ぶ家庭です。そこに、受洗間もない、教会のことなど右も左も分からない女性が入って、子を産んで育てるのです。それだけでも不安だったでしょうが、私の祖父は牧師で、私が生まれる随分前に亡くなっていたのですが、その祖父に私が似ていると、祖母が、私が乳児の頃からしょっちゅう言うんだそうです。そして、成績もそんなに悪くなかったものですから、小さい頃から「ヒロちゃん、牧師にどうかしら」なんて、周りから言われて来たんだそうです。
そういう期待を背負わせられれば、母はやっぱりそういう気持で私を見ますし、私自身も、母親はもちろんのこと、周りからの期待も感じていたはずです。そういう中で育ったせいで、私は、人の期待には何とかして応えなければならない、しかも中途半端では駄目で、できるだけ完璧にしないといけないという気質が植え付けられたようです。一言で言えば完全主義的で、物事をゼロか百かで考える傾向が強い。また、はじめに申しましたように、人の言葉が何でも自分に向って来ているような、しかも厳しく響いて来るような、そういう受け止め方の癖を生む。そんな、とてもストレスを溜めやすい性格が、私を、実は8年前に、自律神経をおかしくする結構大きな病気へと追い込むことになりました。これは、私の勝手な想像ではありません。私を診て下さった精神科医の診断です。
で、これを初めて教会の礼拝でお話ししましたときに、ある方から「自分のような、何の期待もかけられずに育てられた者は、どうなるんでしょうか」と問われました。つまり、私は、なんだかんだ言って、随分と恵まれた環境の中にいたのではないかということだろうと思います。けれども、事はそういう問題ではないのです。と申しますのは、別の機会に別の場所でお話ししました時に、「そう言われて考えてみれば、自分にも思い当たるところがある」と、思いの外多くの方から言われたのです。つまり、私はほんの一例に過ぎなくて、どこのどの方も、自分の生育というものを丁寧に辿ってご覧になれば、そこには必ず親との関係、そこにある蟠り、あるいはまた少し広い人間関係の環境の中に、今の自分を決めているほとんどのものがあることに、気づかれるのに違いありません。
そこには、人から見れば恵まれていると思われるような私の場合でも、後の自分を苦しめることになるものが、実際にある。何か運命的とでも言わなければならないようなものを、誰もが背負っています。そういう風に育って来た者が、今度は自分が子を育てるのです。それに、自分が背負っているものが影響しないはずがありません。
そんなことを、このレアとラケルの子の名付け方に重ねて、考えさせられながら、ここを繰り返し読みますと、一つ、とても気になることが出て参ります。それは、先ずは、印刷の始めの31節に、「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子どもができなかった」とあることです。「主」というのは、聖書が神様を呼ぶ呼び方の一つです。ですから、「神様は」ということ。何か引っかかります。神様がレアの肩を持ったので、彼女に子が生まれたということなのか。もし神様がおられるのならば、レアにもラケルにも平等に子を授けて下されば、後の妬み合いはなかったのではないかと思いますのに、レアの方に子を授けられたというのです。
それで、一方のラケルは当然心穏やかではいられなくなりまして、30章の方に参りますと、自分の召し使いの腹を借りて、子を二人設けることをします。初めの子をダンと名付けた、その理由は6節で、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった。」二人目はナフタリと名付けた、その理由は8節で「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った。」どうでしょう。もう敵意剥き出しです。
で、今度はレアが、自分には実の子が4人もいるのに、ラケルが側女によって子を設けたことが我慢ならなくて、勿論夫が自分よりもラケルを愛していることへの嫉妬に駆られてのことですが、9節からのところで、今度は自分の側女の腹を借りて二人の子を設けます。
更に先の14節からのところでは、レアの子のルベンが、「恋なすび」を取って来たことが発端になりまして-この一件については詳しく申し上げることはしませんが、「恋なすび」というのは、当時の媚薬、性欲を増進させる作用がある野菜だった。それが分かるとこの一件のことは分かると思います。その結果、17節をご覧になりますと「神がレアの願いを聞き入れられたので」とある、それで、レアは更に一人の女の子を含む、三人を産むことになります。そして22節を見ますと、今度は、「しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ。」とある。
つまり、気になりますのは、この家庭に生まれるどの子の経緯にも、神様が関わっているのです。これは一見すると、こういう家族のあり方、殊に二人の妻のこの剥き出しの敵意まで、何だか神様がそのまま肯定しているかのような、あるいは、その片棒を担いでいるようにさえ思える。どういうことなのだろうと、思うわけなのです。
で、このことに同じように引っかかった人がおります。昔ヨーロッパの教会で宗教改革をしました、カルヴァンという人です。彼はこう申しています。「誰の、どのような思惑によって生まれる子でも、その子を世に生み出しているのは、神ご自身なのだ」と。つまり、この夫婦の有り様にだけ目を奪われていると、どちらの肩を持ったからこうなったとかいうことが、問題の中心であるように思える。でも、生まれて来る子、一人一人の新しい命、そこに目を留めますと、どの命の誕生にも、神様が、それこそ平等に、手をお掛けになっている。だから生まれて来るのです、命は。そのことが、実はここで一番大事なのだと言うのです。
一見すると、このレアとラケルの思惑が子を生み出しているように見えます。世間でも 子どもを産むことを「子作り」と普通に言います。夫婦が子を作るから、子は生まれるのだ、と。でも、本当はそうではないのだと、カルヴァンは言うのです。どんなに作ろうと思っても、神様がそれをお許しにならない限り、子は生まれない。そういう意味では、ちょっと戻りまして、2節で、ラケルの言い分に怒ったヤコブが、「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」と言っています。これは、実に正しいのです。
今は、不妊治療をするご夫婦は沢山いらっしゃいます。その思いの切実さは、勿論分かるつもりです。でも、すれば子が出来るかというと、功を奏する方がいる一方で、泣いて諦めなければならない方もいます。実際、私の前で、声を上げて泣いて諦めた方がいます。やはり、どんな方法を取るにせよ、命が生まれるか生まれないかには、本当は誰も手出しできないのです。それは偏に、人の思いを超えた、神様の御心によっている。そのことを、ここに「神が願いを聞き入れた、御心に留めた」と言われていることが明らかにしていると、カルヴァンは言うのです。
ということは、考えてみれば、その神様は、こんな風にして生まれてくる子が、やはり何かしらの重荷を背負うことになることは、重々分かっていらっしゃるということではないでしょうか。まあ、この夫婦は、自分の子を設けることについてさえ、自分の嫉妬や、勝ち負けみたいなことを無意識のうちにそれに載せて、事を計っている。何という親だろうと思いますね。でも、そう思う自分自身を、落ち着いて正直に振り返りながらここを読みますと、こういう手前勝手なところが自分には全く無いと言える人は、私を含めて、恐らく一人もいないでしょう。自分の心の奥底に動いているものが、この人々が鏡になって映し出されている面があることを、恐らく誰も否定出来ないのです。
そして、神様は、それを承知の上で、人に子を生ませなさるということは、そこで否応なしに背負ってしまうものについては、神様ご自身が責任を負うんだと、心に決めておられる。聖書の印刷の、先ほどは読みませんでしたイザヤ書46章の言葉をご覧下さい。これは、イザヤという預言者を通して語られた、神様の御心です。3節から、「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
神様がお造りになった命です。そうである限りは、お造りになった神様ご自身が、その命が背負わせられてしまっているあのこと、このことも含めて、丸ごと背負って行くんだ、と。どんな生まれ方をした、何を背負ってしまった命でも、神様がそのままに背負って、最後まで生かして行くのだ、と。こういうご意志を聖書では「贖い」と言うのですが、その贖いの意志が、この世に、命を生み出して生かしている、本当の力なのです。
つまり、どんな生まれ方をしたにせよ、育ち方をしたにせよ、どこのどの命も、神様に愛されている、愛されていない命など一つもないのです。それが、いわゆる「命の尊厳」というものの根本にあることです。自分の命はそういうものなのだと知るときに、命は、本当の意味で命になる。つまり、命は、自分を世に生み出して下さった神様を知って、初めて命になるのだと言っても良いです。ならば、神様は、既にいろいろなものを背負ってしまっている私を、どう生かして下さるのかです。
そこで、残しておりますもう一つの聖書、マタイによる福音書7章7節からをご覧下さい。始めの7節と8節は有名ですが、今日はそこではなくて9節からのところです。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
これは、イエス・キリストにお言葉です。皆さんは、これをどうお思いになるでしょう。私は一時期、この「あなたがたは悪いものでありながら」という一言に、引っ掛かっていました。これは、親のことですね。親は、心血を注いで子を育てます。それを「悪い者」と言い切られるのは余りのことではないかな、と。ですけれども、私は病気をしてから、先ほど申しましたようなことで、これが分かる気がしてきました。私を育てた親も、レアやラケルを動かしている暗いものを何程か抱えていました。そして、自分も親ですが、同じなのです。親の思いはもちろん貴重なものです。けれど、そこにはやはり影がつきまとっている。イエス様から「悪い者」だと言われる理由が何もない人は、実は一人もいません。
けれども、それだけに、続くこの言葉が、実に重大です。「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」「あなた方の天の父は」、これは神様のことですけれども、神様が私たちの天の父だということは、イエス・キリストがお教え下さったことです。神様こそは、肉親の親とは違う意味で、あなたがたの父なのだ、と。今ほど見ましたイザヤ書の言葉が示しているような意味で、私たちの本当の親は神様なのだ、と。だから神様は、私たちに良い物を必ず下さるから、求めて、生きてご覧なさい、と。
つまり、神様は、私たちが生まれながらに背負ってしまっているマイナスを、時には補ったり、時には乗り越えさせて下さったりして、祝福に変えて行って下さる。だから、運命を恨んでみたり、親を恨んでみたりする前に、あなたの天の父なる神様に求めてご覧なさいと、そう仰っているのです。
例えば、今日は私のことを申し上げましたので、また申しますと、私に植え付けられてしまったあの自分を苦しめてしまう気質です。それそのものを変えることは出来ないのです。お医者さんがはっきりそう仰いました。でも同時に、それは、ただの短所ではないのだとも仰ったのです。人間の短所の裏には、必ず長所が潜んでいる。そういう気質だからこそ、あなたはこれまで、自分を高めて来ることが出来た。かくあるべしという目標に向かって、努力してきたから、今のあなたがある。そういう、自分を作ってくれているものの一つなのですよ、と。
それを言われたときに、真っ先に思い浮かんだのが、このイエス・キリストのお言葉、「天の父は、良いものを下さる」という言葉でした。ですから「こんな自分ですけれども、神様、どうか良いものを下さい。自分が自分として、あなたに頂いたこの命をより良く生きることが出来るように、良いものを下さい」と、求めていいんだなと思いました。そして、求める者に、肉親の親は与え切れなかった、本当に良いもの、必要なもの、生かしてくれるものを、神様は必ず与えて下さる、私を苦しめるたちの裏側で与えて下さっていたように。神様は、私たちの、そういう意味での真実の父なのです。
ということは、それは単に、自分だけの父ではないのですね。自分を育てた、肉の親にとっても、同じように真実の父です。そして、自分が育てた、あるいは育てている子にとっても、真実の父。皆同じように欠けのある、何程か暗いものを背負って生きざるを得ない人間です。その私を赦し、受け入れて、より良く生きることが出来るように、必要な良いものをお与え下さる天の父、それが神様です。
その神様に向って、子も、親も、共に立つ。お互いに向き合う以上に、顔を神様の方に向けて、一緒に「天のお父様」と呼んで、立つ。そうします時に、そこに、薄暗い曇り空の、雲の切れ目から差し込む日の光のように、新しい光が、子と親の上に差し込んで来るのが分かるのです。そこから、新しい何事かが始まるのが分かるのです。
今日丁寧に見て参りましたヤコブとレア、そしてラケルが織りなしている、実に複雑で難しい家族です。でも、この子どもたちの子孫に、あの、一般にもよく知られているモーセ、子孫たちをエジプトの奴隷生活から救い出すモーセが生まれることになります。そして、更に時が進みますと、これもミケランジェロの作になる像で知られていますダビデ、子孫の歴史の中で最も優れていると言われる王様が生まれることになります。そして遂に、そのダビデの裔に、イエス・キリストがお生まれになりました。人の暗い思いが紡ぐ家系を、神様が、真実の父として贖って、良いものをそこに生み出して下さっています。私たちは例外なく、今も、この天の父に結ばれ、愛され、生かされている一人一人です。どんなに重く暗いものを背負っていても、そのあなたを愛して、どこまでも良く生かすために、一緒に生きて下さる天の父がいる。このことを、どうか今日共に心に深く覚えていただきたい。そして、改めて、生きて参りたいと思います。