「隅の親石となられたイエス
寺島謙牧師
マルコによる福音書 12章1節~12節
広く知られたブドウ園のたとえ話から学びます。30年以上も前の事ですが,ある説教者の語った言葉に、「世界は誰のものか」という問いがあります。これに答えているのが,この聖書箇所と言えます。
ここでぶどう園とは、この世のことであり,園の主人は父なる御神のことです。ぶどう園の全てを整えて農夫たちに与えたのは,園の主人です。それを忘れて,農夫たちは,主人がつかわした僕らを亡き者にすれば園は自分らのものになると思い違いをして,僕らを殺し,あまつさえ、主人の一人息子さえも殺してしまいます。我々人間の罪ある世界を表しています。主人が旅に出たとは,父なる御神が,我々の目には見えない事を指していると思われます。主人は旅に出ただけで、実は現存すると同様に,神は目には見えなくともまことに生きておられるのです。主人が園につかわした僕とは,旧約聖書の預言者たちを指すのでしょう。預言者たちは,人々の罪を正すため,くり返し悔い改めを迫りましたが,神のこの忍耐の未に送った-人息子(イエス・キリスト)をさえ,彼らは十字架につけて殺してしまったのです。「悔い改め」とは,もともと,「心をめぐらす」という意味です。反省するだけではなく,考えを拡げることです。自らを世界の中心と考え,世界は自分たちのものだという,狭い誤った考えを変え,全てを造られた父なる神を覚え直すことです。
主イエスが語られた,このたとえ話の結論は,「隅の親石」の話です。詩編118編22~23節からの引用です。パレスチナ地方には,大きな石を使った家が沢山あるそうですが、建物の最も重要な要石は,それほど大きくない目立たない石だそうです。目立たないが,最も大切な,かなめとなる石。これこそは,主イエス・キリストの十字架を指しているのです。この世は,これを見逃しています。キリスト者でさえも,しばしば同じ有様です。実は,主の十字架こそが,世界を支えているのです。これを示しているのが,本日の聖書箇所と言えるでしょう。
人間は皆,罪人です。解決されなければならない,世の多くの事 一 戦争,殺人,虐待,差別,強欲,いつわり - ,これらの全てを解決する力は,人間自身にはありません。これを解決するのは,神の力,十字架の力です。我らの思いをはるかに越えたものです。我々は主の十字架によって罪を赦され,復活の希望をさえ与えられています。古えの預言者の言葉は,真実です。「起きよ,光を放て。あなたを照す光は昇り,主の栄光はあなたの上に輝く。見よ,闇は地を覆い,暗黒が国々を包んでいる。しかし,あなたの上には主が輝き出で,主の栄光があなたの上に現われる。」(イザヤ書,60草1~2節)