説教題 「神の愛による平和の契約」 亀田昭子先生
創世記9章12~17節
「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように』」(ホセア書3:1)。ホセアは淫行の女ゴメルと結婚をします。しかし彼女は愛人のもとに走り、やがて男に捨てられ、奴隷に売られてしまいます。ホセアは奴隷となった彼女を買い戻し、再び妻として迎えるように神に命じられるのです。裏切りの妻をその子と共に迎えるホセアの愛は、イスラエルが他の神々に走ったにもかかわらず、なお神はイスラエルを愛されるお方であることを象徴するものです。姦淫の妻ゴメルを迎えるようにと命じられた言葉は、神の愛がいかに激しく深いことを表すものです。この神の愛による赦しのもとにある信仰は、神は何をしてもお赦しになると安易な信仰を教えるものではありません。愛の激しさは、罪を告発し審き、罪の実態を暴くのです。これは愛されることではじめて知る赤裸々な罪の告白であります。その意味では信仰は、愛による赦しを喜ぶと共に、赦されていればこそ罪とは何であるかを白日の下に曝すことを可能にするものでもあるのです。(「365日の聖書」賀来周一著より引用)