説教(2022年1月月報より)

 復活の主イエスから使命を与えられた使徒パウロと,その協力者シラスの伝道の旅が続きます。彼らはテサロニケに着きました。当時のマケドニアの大都市です。先にフィリピで,不当に逮挿され,神の不思議な御手によって救い出された経験を持つ二人は,ここでも多くのユダヤ人達の反感を買います。ユダヤ人達は,パウロらの説く福音を信じて受け入れた人々が多く出たことをねたみ,暴動を起こします。幸い,二人は直接の被害は受けませんでしたが,それにしても,パウロらは何故,このように福音を語り続けることが出来たのでしょうか。信仰によって歩み続けたからです。常に上を見上げつつ進んだからです。テサロニケへの長い道のり(彼らはフィリピから二つの町を経て,3日をかけて当地にやって来たのです)を,常に顔を天に向けつつ歩んで来たのでしょう。
 彼らは,ユダヤ人の会堂でおおいに論じ合いました。福音(よき知らせ)を語りました。これが彼らの使命でした。ユダヤ人達は,旧約聖書をよく読んでおり,これこそが救いの道であると信じていました。これに対してパウロらは,主イエス・キリストの十字架とその苦しみによる,罪の贖いと復活を信じることによる救いを語りました。自由な自らの意思でこれを信じて受け入れることによる救いです。自由な意思によって,神の栄光を表すのが,人間の使命です。神は人間を,主体(自由)を持つ存在として創造されたのですから。しかし,人間はこの自由をもって神に背いたのです。丁度,糸が切れた凧のように,人間はそのあるべき姿(神との関係)を失い,横の糸ともいうべき,相互の関係をも失ってしまいました。創世記のカインによる人類最初の殺人事件も,この神への背きの罪から発生しています。この切れた糸を,再びつなぎ直して下さったのが,主イエス・キリストです。その十字架上の死によって私達の罪を贖われた主は,復活されて今も私達と共に居られるのです。これが「インマヌエル」(神共にいまし給う)です。宗教改革者のマルチン・ルターは,「キリストと一緒なら,地獄に行ってもかまわない。」と言いました。神と繋がっていれば,どんな事が起きても構わない,という意味でしょう。「インマヌエル」は決して当然の事ではないのです。その背後には,主の十字架と復活があるのです。
 北海道で酪農を始めた方が,なかなか仕事を軌道に乗せることが出来ず,借金が増え,途方にくれていた時,ある集会で,「疲れた者,重荷を負う者は,だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)という主の言葉にふれ,入信して立ち上がることが出来,今も元気で居られるとの事です。インマヌエルこそ,私達の生きるカなのです。