一番えらい者

 今日のお話は、イエスさまが、ガリラヤ湖を通り、カファルナウムに着いた時のお話です。お弟子さんたちが、旅の途中、何やら激しく話し合いをしていました。カファルナウムにある家(やど)に入ってからも、お弟子さんたちの様子が何だか違います。何だか、険悪、そう喧嘩をした後のようなすっきりしない、もやもやとした様子なのです。イエスさまは、そのわけは、全てご存じでした。しかし、敢えて「途中で何を話し合っていたのか。」と、お尋ねになりました。お弟子さんたちは、誰も答えません。なぜなら、お弟子さんたちが話し合っていたこととは、自分たちの中で誰が一番偉いか、ということだったからです。

 弟子たちは、イエスさまのことが、みんな大好きでした。だから、イエスさまは、いったい誰のことを一番好きなのか、誰のことを一番大事に思っているか、誰のことを一番頼りになる弟子であると考えているのか、ということが、みんな気になるのです。この弟子たちの気持ちは、わたしたちにもよくわかります。一番になると、なんだか鼻が高く、威張れそうな気がします。一番は無理だとしても、せめて2番、3番、・・・・最悪でも、まん中の6番までには入りたい。もし、12番だったとしたら、馬鹿にされるし、かっこ悪いから弟子であるのは止めよう。そんなふうに考えていたかもしれません。「俺たちが、一番に声を掛けてもらったんだから、俺たちが一番偉いんだ。」「いや、俺だ。だってイエスさまから新しい名前をもらったんだからな。」そんな感じで、旅の途中、激しく議論をしていたようでした。

 「何を話し合っていたのか」という問いに対して、黙っている弟子たちに、イエスさまは、落ち着いてしっかりと話をしようと決心されました。イエスさまがまず座り、弟子たちを呼び集めて、近くに座らせました。そして、静かにお話になりました。弟子たちは、イエスさまが、どんなお話をされるのか、緊張して聞いていました。一番偉いのはだれか、話してくださるかもしれない。自分だったらいいなと、内心わくわくしながら聞いていた人もいたかもしれません。しかし、イエスさまの答えは、実に意外でした。だれの期待にも応える内容ではなかったのです。
「一番になりたいものは、全ての人の後になりなさい。そして、全ての人に仕える人になりなさい。」それが、イエスさまの答えだったのです。

 私たちも一番になりたいって、考えることがありますよね。では、どうして一番になりたいのでしょうか。改めて考えてみたいのですが、一番になったら、鼻が高く、自慢できる。いばれる。周りの人に命令をして、めんどいことやしたくないことはやってもらえる、お金持ちになれる。周りの人からちやほやされる。異性にもてる。きれいな人、かっこいい人と結婚して、幸せになれる。他にもいろいろといいことがありそうです。しかし、ここに一つ大きな落とし穴があるのに、気が付きますね。そうです。自分のことしか考えてないのです。いわゆる、自己中、自己中心的なのです。イエスさまの教えは、全く逆でした。全ての人の後になって、全ての人に仕える人になりなさい。これは、自分のことを考えるのは後にして、周りの人を助ける人、周りの人を支える存在になりなさい。ということだったのです。これは、実は、イエスさまの生き方そのものです。困っている人や苦しんでいる人を見付けては、側に駆け付け、イエスさまは、その人を癒されました。最後には、十字架にかかり、私たちすべての人間の罪の身代わりとなって、命を落とされました。そのイエスさまの生き方は、全ての人の後になって、全ての人に仕える生き方だったのです。しかし、弟子たちは、何だか不満であったに違いありません。全ての人の後になるなんてまっぴらだと考えた人もいたに違いありません。


 ところで、イエスさまは、そんな話をしている最中に、そこにいた一人の子どもの手を取って、まん中に立たせ、抱き上げられました。きっとその家に住んでいた小さな1・2歳くらいの子どもだったに違いありません。その子は、大人がたくさん集まって、何かお話をしているのがめずらしく、思わず近づいてきたのでしょう。イエスさまから、「こっちにおいで。」と呼び寄せられ、優しく抱っこをしてもらえました。きっと満面の笑みでにっこり微笑んだに違いありません。それにつられ、それまで、怖い顔をして話を聞いていた弟子たちも笑顔になったことでしょう。
そして、イエスさまは、「このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」とお教えになりました。このような子どもというのは、小さな子ども。まだ自分の力では何もできない存在です。周りの人の力をかりなければ、生きていけないのです。誰が偉いかということで、ランクすれば、一番最後に置かれてしまうかもしれない存在です。そんな子どもを受け入れるというのは、どういうことでしょうか。わたしも今日の話の内容を考えていて、一番悩んだところでした。

 小さな子どもというのは、皆さんご存じのように、手がかかります。ご飯も食べさせてあげなくてはいけません。着替えもさせなくてはいけません。おむつの交換、お風呂入れ。そして、夜中には何度も起こされることもあります。病気にでもなれば、心配で、眠ることもできません。重い障害のある子どもさんの場合だったら、一生面倒を見続けなければならない。実際にそんな大変な生活をされている家族だって、この世にはいくらでもあるのです。でも、どの家族も、そんな手のかかる子どものことを見捨てたりはしません。どんなに手がかかっても、どんなに成長の歩みがゆっくりであっても、みんな受け入れて、その子の成長を温かく見守り、支えているのです。もしかしたら、みんな一番になれる存在なのかもしれません。イエスさまにだっこされて嬉しそうにしている子どもの笑顔を見て、弟子たちは自分たちまで嬉しくなり、同時にはっとしたことでしょう。自分たちは、この子どもを受け入れている。だから、自分たちもイエスさまを受け入れ、また受け入れていただける存在なのだ、ということに気付いたことでしょう。だから、誰が一番だなんて争っている必要はなく、自分たちのことはイエスさまにすべて委ねて、隣人のために仕えることが神さまの御心に適った生き方なのだという思いを強く持ったのではないかと思われます。

 イエスさまは、この時、子どもを取りあげて、お話をされましたが、私たちが仕えなければならない存在というのは、他にもいくらでもありそうです。私の場合だったら、高齢の犬がその一人なのかもしれません。「るな」という名前の犬ですが、昔は、毎日のように散歩をさせていた元気が自慢の犬でした。ところが、今は年老いて、足腰が弱り、散歩に行くこともできません。食欲だけは旺盛で、朝晩に私の顔を見ると、ワンワンと餌をねだります。足腰が弱っているので、糞尿の世話もたいへんで、毎朝夕に、犬小屋のシーツを変え、洗濯をするのが、私の日課の一つとなり、一年365日、一日も欠かすことができません。手間暇かかり、お金もかかり、それでいて、るなから感謝の言葉をかけられることもありません。でも、なぜか、自分はそんな作業を毎日繰り返しています。それは、るなが、自分を受け入れてくれているからにほかなりません。小さな子どもも受け入れるということに関しては、天才的です。まず、自分の母親や父親を無条件に受け入れます。こんな母や父はいやだと文句を言う子どもは一人もいません。つまり、私たちは自分が受け入れてもらえる時、相手を受け入れることができるようです。神さまとの関係だって、同じです。私たちが、神さまを受け入れる時、私たちは神さまから受け入れられるのです。小さな子どものように純粋に神さまを受け入れなさい。そのことをイエスさまは、この出来事を通して、弟子たちに教えられたように思います。
 教会に通っていて、いいなと思うことがあります。それは、お互いが祈り合えることです。自分が病気になった時、元気になれるように祈ったとしても自分一人の祈りなら、たった一つの祈りでしかありません。でも、他の人にも祈ってもらえたら、その祈りは、10にも20にも膨らみます。神さまのもとに届く強い祈りになることでしょうし、何より元気がでます。うれしくなります。そして、お互いを受け入れて祈り合うことは、神さまを受け入れることにつながるということ、それを神さまはわたしたちに求められているということを、今日は聖書のみ言葉から学ぶことができました。