安息日の主

マタイによる福音書 12章1~8節

イエスさまのお弟子さんたちが、イエスさまと一緒に麦畑を通られていました。その時、お弟子さんたちは、麦の穂を摘んで食べ始められました。麦の穂というのは、あまり見かけることがないのですが、今年の5月に松前町でこんな麦畑を見付けました。遠くから見ると黄色いじゅうたんのように見えます。近づいてみると、ピンピンとはえたひげのようなものの根元に、穂がぎっしりと詰まっているのが見えました。その美しさに思わず感動してとったのがこの写真です。弟子さんたちは、この時、とてもお腹を空かせていました。だから、おもわず、手で摘んで食べてしまったと、今日の聖書の箇所の始めに書かれています。

しかし、いくらお腹を空かせていたとしても、おいしそうに見えたとしても、人の畑の作物を勝手にとって食べるのでは、泥棒でないか。犯罪ではないかと、思ってしまいますよね。ところが、この行為は、当時の律法では許されていたそうです。「隣人の麦畑に入る時には、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と申命記に書かれているのです。目の前に豊かな実りがあるのに、貧しい人が飢えて苦しむことがないように配慮されていたのだそうです。それならば、お弟子さんたちが行った行為は、許される行為と考えられますね。しかし、それを見かけた律法学者の人たちは、すごく怒ったのです。きっとお弟子さんたちに、「なんてことをしているんだ。安息日には仕事をしてはならないと決められているのをお前たちは知らないのか。」そのように大きな声で、しかりつけました。お弟子さんたちは、きっとびっくりしたことでしょう。

律法学者が怒ったのは、人の麦を食べたからではありません。その日が安息日だったからです。安息日は、仕事をすること(労働)を休み、神さまに礼拝を捧げる日と決められていました。当時は、土曜日が安息日だったそうですが、今では日曜日が安息日に当たります。だから、わたしたちは、日曜の今朝、礼拝を捧げているのですが、麦を手で摘んで食べるという弟子さんたちの行いは、労働をした、仕事をしたという風に律法学者には、受け取られたわけです。

ところで、安息日は、どうして定められたのでしょう。それは、神さまが世界をつくられたとき、6日間仕事をされて様々なものを作り、それを見て満足され、7日目にはお休みになられたという創世記の一番始めの記述に基づいています。安息という字の通り、世界を完成された神さまは、ほっと一息つかれたわけですね。そこから考えると、安息日は、「仕事から離れて神さまの恵みに感謝する日」というふうに考えられるはずですが、いつの間にか、「仕事をしてはいけない日」というように考えられていったと思われます。

では、どうして、安息日についてのとらえ方が、そのように変わっていったのでしょう。いろいろな理由があると思いますが、一つには、律法学者さんたちの熱心が生み出したものではないかと思われます。きっと律法学者が自分たちの熱心さを競い合ったのでしょう。律法には、;安息日以外にも、いろいろな禁止事項が細かく決められています。どこまで守れるかということを自分に課して生活し、それによって救われたいと考えたのではないでしょうか。律法学者がそのように考えて掟を守ること自体は、決して悪いことではないと思います。ただ、数々の決まりを守ることを何よりも最優先に考えたこと、そしてそれをほかの全ての人たちに押し付けてしまったこと、そこが問題であったと思われます。

聖書の記述に戻ります。イエスさまは、この時、お弟子さんたちが麦を摘んで食べていることを知っておられましたが、注意をされませんでした。そのことが律法学者の怒りを更にかったのですが、ダビデや祭司の例を挙げ、「私が求めるのは、憐れみであって、いけにえではない。」という申命記のみ言葉を使って、律法学者たちの非難から、お弟子さんたちを守ろうとされました。

いけにえというのは、礼拝を捧げる時に、当時は、牛や山羊・羊、ハトなどの動物を焼き尽くして神さまにささげました。命や血を捧げることによって罪を赦してもらうという意味があったようですが、それは聖書にきちんと書かれていることです。しかし、聖書の教えに忠実であっても、何の罪もない弱い立場の動物たちの命を備えられることを求めているのではないという神さまの御心が示されています。神さま、そしてイエスさまが求めているのは、憐れみなのです。

弟子たちの行為は、律法から考えれば正しいことではありません。しかし、おなかをすかせたもの、貧しいものいたら、食べ物を与える。それが憐れみでしょう。だから、麦の穂を安息日に食べたという弟子の行為は、許されるではないか、そうイエスさまは言われたのだと思います。

今日のお話を考えていて、わたしは、思い当たることがいくつもありました。決まりとかルールを守るという正義が、誰かを傷つけてしまっていることはないかということです。社会にもルールがあるし、またそれぞれの家庭にもルールがあると思います。わたしが勤めている学校にもルールがあります。例えば、遅刻をしてはいけないとか、忘れ物はしないとか、宿題をしなくてはならないというルールがあります。ルール違反をした時には、例えば宿題ができていなかったのなら、昼休みを返上して宿題をしてもらうということがありました。何人かいた時には、一律に厳しく叱りつけたこともあります。怠けてさぼった子が叱られたり、昼休みに勉強されたりすることは仕方がないことだと思います。しかし、今、よく言われるようになったヤング・ケアラーがその中にいたかもしれません。夜遅くまで働く親の代わりになって、小さい兄弟の面倒を見ていて、宿題をする時間がなかったという子がいたかもしれないのです。一人一人の家庭状況を知るために、しっかりと話を聞いて、必要な支援を行う。それがこの場合の憐れみの形しょう。また、忘れ物を繰り返す子には、叱りつけるだけでなく、どうしたら忘れ物が少なくなるか、その作戦を一緒に考えるという支援を行うこと、それも憐れみだと思います。

このように私たちの身の回りには、きまりを守りたいけど守れないとか、伝えたいけど分かってもらえないとかいうようなことがよくあります。他人の立場や気持ち、事情というのは見えにくく、分かりにくいものなのです。そして、それがおろそかにされてしまうことがたくさんあるように思います。さっきは、子どもの例を挙げましたが、高齢者にも「本当のことがわかってもらえない。」という事例があるようです。「認知症の人の語りだしを支える」という本を最近読みました。認知症なんだから語ることなどできないではないか、できたとしても一体何を語るのだろう、それが題名を見て読んでみようと思ったきっかけでした。その本には、認知症に苦しむ患者の苦悩が、いくつもの例を挙げて、たくさん説明されていました。家族から投げかけられる叱責の言葉や、認知症なのだから分からないだろうと考えられて、家族間で取り交わされる心無い言葉もあるでしょう。しかし、本人は、実は分かっている、何とかしたいと思って努力をしているのだけど、どうしても失敗してしまう、そのような経験が積み重なると、認知症の方が口を閉ざしてしまうのだそうです。しかし、医師や同じ認知症に苦しむ人がサポーターとなって、つらい気持ちに共感し、話を粘り強く聞くことによって、口を閉ざしていた患者さんが、少しずつ自分の内面に閉じ込めていた気持ちを語るようになることもあるという内容の話でした。
一人一人の事情や内面に隠された気持ちに寄り添うということは、簡単なことではないでしょう。大変な努力や根気がいることだと思います。しかし、イエスさまが望んでいることは、憐れみをもって人に接すること、憐れみというのは、正しく人を理解しようとすることも含まれると思います。イエスさまに連なる人間として、どこまでできるかはわかりませんが、また熱心になりすぎることで自分自身の心や体を傷つけてしまうことも本末転倒だと思います。そんなことに気を付けながら、周りの人に接し、力になったり、逆に支えていただいたりしながら、これからの生活を送っていきたいと考えさせられた今日のお話でした。

最後に祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま。今日は、安息日の主というテーマで、聖書のみ言葉を学びました。マルコによる福音書には、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主でもある」と記されています。律法の規定を守ることが人の命や幸せを守ることよりも大切にされたいたことをイエスさまははっきりと指摘されました。何よりも大切であるのは、憐れみである。その御言葉を心に刻んで、今週も歩んでいけますようにお導きください。
今日、この場に集うことのできなかった子供たちの上に神さまからの豊かな祝福がありますように、楽しい夏休みの思い出を家族や友達とたくさん作ることができますように、元気に2学期の始業式を迎えることができますように、お祈りします。
この一言の祈りを、イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。