マタイによる福音書 3章13~17節
先週はヨハネについてのお話を伺いました。その中で、ヨハネが、「もうすぐわたしより優れた方がおいでになる。わたしは、その方の履物をお脱がせする値打ちもない。」というように話していました。その優れた方というのが、イエスさまのことだったのです。
そして、ヨハネの言葉どおり、イエスさまが現れました。ところが、ヨハネがとても驚くような現れ方をされました。それは、悔い改めて洗礼を受けようとヨハネの前に並んでいるたくさんの人の中に、イエスさまが並んでおられるのを見付けたからなのです。
イエスさまが、洗礼を受けられる。神さまの独り子のイエスさまが洗礼を受けられることについては、わたしも不思議に感じていました。だって、イエスさまは、神さまの子どもと言われていますが、三位一体と言われているように、神さまと同じ存在です。唯一の罪のないお方、唯一の正しいお方である神さまと同じイエスさまが、どうして洗礼を受けられる必要があるのだろうか。それが、とても不思議でした。
そして、そもそも洗礼ってなんだろうかということが今回のお話をさせていただくにあたっての疑問となりました。ところで、先週、お話のあったヨハネさんは、多くの人々に洗礼を授け、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになった人でした。そこで、その先週のお話を振り返ってみましょう。ヨハネは、次のように言っています。
「これまでの自己中心の罪の生き方を悔い改めなさい。心を神さまに向けなさい。天の国は近づいた。」と大声で叫びました。多くの人がヨハネの元に集まって、神さまに「罪をお赦しください。」と謝り、ヨルダン川で洗礼を受けました。
そのお話から考えると、洗礼というのは、今までの罪の生き方を悔い改める。そして神さまの方に向き直る。そういう意味をもつ儀式のようです。しかし、それだけであったら、イエスさまがなぜ洗礼を受けに来られたのかという疑問を解決することはできません。なぜなら、イエスさまは罪のないお方だからです。悔い改める必要は全くないと思うのです。では、どうしてなのでしょうか。実は、イエスさまの洗礼には、私たちの洗礼とは違った特別な意味があったのです。
ヨハネは、洗礼を受ける人々の中にイエスさまを見付け、言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けなければなりません。どうして、あなたが私のようなもののところにおいでになったのですか。」そのように言って、イエスさまに思いとどまっていただこうとしました。すると、イエスさまは、こう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と語られたと聖書には書かれています。
「正しいことをすべて行うのは、我々にとってふさわしいこと」という表現をテキストでは、次のように説明されていました。「父なる神さまがそれを望んでおられるのですから、今はそうすることが御心に適うことなのだ。」つまり、神さまが、イエスさまが洗礼を受けることを望まれているということなのです。いったい神さまの御心とはどこにあるのでしょう。
私のような未熟なものがお話しできるような内容ではないと思いますが、神さまは、イエスさまを私たちと同じ人間になってもらうことが御心であったということが分かります。私たちと同じ罪人の一人として洗礼を受けられる。そして、罪のないはずのイエスさまですが、罪人として歩んでいかれる。罪にまみれたわたしたちと同じ人間になってくださることが神さまの御心だったのです。わたしも人間の一人ですから、罪を犯し続けています。洗礼を受けて十年以上がたちましたが、未だに罪を犯し続ける人間です。神さまのことを忘れて、自分の思いや考えだけで行動したり発言したりしていることがよくあります。そんな時には、御心を求めることや感謝することをすっかり忘れているのです。後から、しまったと思います。後悔しますが、また同じことを繰り返してしまいます。そのたびに、復活のイエスさまがとりなしの祈りをしてくださり、赦されて生かされている。だから、今、ここに立ってお話することができているわけなのですが、イエスさまが、そんな罪にまみれた人間と同じ姿となって洗礼を受けてくださったことには、どんな意味があるのでしょうか。
テキストには、次のように説明されていました。
「きょうの聖書のみ言葉は、イエスさまが洗礼をお受けになられたことを伝えています。イエスさまは神さまの独り子であるお方ですから、いつでも神さまとひとつであるお方ですから、洗礼をお受けになる必要はないと思うかもしれません。けれども、イエスさまは洗礼をお受けになりました。それは、イエスさまと同じように洗礼を受けるわたしたちとひとつになってくださるためです。
イエスさまがわたしたちとひとつになってくださったので、「これはわたしの愛する子」との神さまのみ言葉を、わたしたちは自分のこととして聞くことができます。わたしたちも洗礼を受けるとき、「これはわたしの愛する子」とのみ言葉を聞きます。イエスさまと同じように、わたしたちも神さまに愛されている子どもとして生きることができます。
洗礼を受けて、イエスさまを信じて生きることは、神さまから「あなたは、わたしの愛する子」と語りかけられながら生きることです。ここに、イエスさまを信じるわたしたちの喜びがあります。
ところで、イエスさまが、洗礼を受けられた後、水の中から上がられると、天から神さまの声が聞こえました。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者。」
このイエスさまに聞こえた声は、同じように私たちにも語られているということなのです。そして、それが可能になったのは、イエスさまが私たちと同じ人間となり、人間の罪にまみれた姿を知りつくしたうえで、洗礼を受けてくださったからなのです。
そもそも洗礼って何だろうか。という疑問が一つ、わたしには解けた気がしています。悔い改めること、そしてそれだけではなく、イエスさまを通して、神さまと一つになるためであるということ、それが洗礼なのだということが分かりました。
でも、もう一つ、疑問が生じます。神さまと一つになるってどういうことなのでしょう。それは、決して特別なご褒美があるとか、苦しみがなくなるとか、そういった身勝手なものではなさそうに思います。わたしは教会に通うようになって、よかったと思うことが一つあります。それは、当たり前のことに感謝できるようになったことです。以前の私は、人と比べて落ち込むことの多い傲慢な人間でした。あの人はあんなことができるのに、自分はこんなことしかできない。そのように考えて、落ち込んだり、自分の殻にこもってしまったり、そういう横着な性分でした。苦労知らずの人間だった。本当の苦しみを味わったことがなかったからでしょう。
でも、教会に通い、イエスさまについて知るうちに、少しずつ変わってきたことがあります。今、わたしは、教員の仕事を続けていますが、周りは自分より若い人ばかりになりました。自分の娘と同じ年齢の同僚が何人もいます。教え子も教員になっていたりします。はつらつと動き、目をキラキラさせて仕事に取り組むそれらの若い人に交じって、自分が混じって自分は存在するのです。最近、人の名前や物の名前がすぐに出て来なくて、首をかしげることがとても多くなりました。数字が覚えられなくなり、電話をかけているうちに、あれ何番だったっけと頭をかく癖も目立ってきました。物を置いた場所を忘れ、探し回ること、腰痛に苦しめられること等々、90になったうちの母が頭が悪くなった、足が弱くなったとしきりにこぼしていますが、わたしも他人ごとではありません。それでも、わたしは、以前ほどに落ち込むことはなくなりました。神さまから備えられた恵みをしったからです。65も近くなった私が、孫のような子どもを相手に学級担任をさせていただいていること、老体に鞭打ってですが、若い同僚の人たちに交じって仕事をさせていただけること。社会に存在していると、苦労はもちろん多いのですが、新しい子供との出会いや成長を感じる瞬間との出会い、そんな恵みを与えてくださっているのが、神さまであることを感じることができます。朝、目覚めること。とりあえず健康であること。家族があること。仕事を与えられていること。夜眠りにつく家があること。
神さまと一つになるというのは、きっとそういう神さまの大きな恵みに守られながら生かされていることに気が付くこと、感謝をしながら一日一日を過ごしていけること、そういうことなのでしょう。そして、その出発点が洗礼であること。そして、その洗礼の喜びを与えてくださったのが人間となられたイエスさまであったこと。そのことを私自身が知ることができた今日のお話でした。
最後に祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま。今日は、イエスさまの洗礼について学びました。わたしたちはイエスさまの洗礼を通して、神さまと一つにしていただける存在となりました。私たちもイエスさまを倣い、神さまの御心に適った生き方を重ねていけますように。時に失敗があったり、神さまをがっかりさせてしまったりすることもありますが、神さまから与えられている恵みを忘れず、神さまを証しできる生き方ができるものとさせてください。
この一言の祈りを、イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。