アンティオキアは異邦人の町ではありましたが,当時ここに多くのユダヤ人がいました。前の安息日にパウロとパルナバが,会堂でキリストによる救いについて感動的な話をしたので,人々は次の安息日にも同じことを話してほしい,と二人に頼みました。その日にはほとんど町中の人が集まりました。しかしユダヤ人達はこれらの人々を見て,ねたみからパウロの話に反対しました。誰よりも聖書をよく読み,これを理解していたはずのユダヤ人が主の言葉を拒み,人々が主の救いにあずかることを妨害したのです。ついには神の独り子,主イエスを殺してしまうことになるのです。コリントの信徒への手紙1の1章には,「十字架の言葉は,滅んでいく者にとっては愚かなものですが,わたしたち救われる者には神の力です。」と書かれています。この言葉の通りになりました。人の罪の深さ,異邦人の救い,そして信じる者が全て救われることがしめされたのです。
パウロ達は勇敢に語りました。我々人間の罪がいかに重いものか。それにもかかわらず,神は我々を見捨て給わず,その独り子である主イエス・キリストの十字架と復活によって,赦しと救いの手をのべられたことを,切々と訴えたのでした。ユダヤ人は,異邦人が救いに入れられることを,ねたみました。これは,神をねたんだ,とも言えます。ねたみは,罪の核心です。主の十字架も,ねたみから生まれたものです。まず神の言葉を与えられたユダヤ人が,主の恵みを拒んだのです。
二人は,異邦人の方に行くことにしました。これは主なる神の御思いでした。主の言葉が実現したのです。「わたしはあなたを国々の光とし,わたしの救いを地の果てまでも,もたらす者とする。」(イザヤ書,49章6節)。主の言葉は,障害をこえてその地方全体に広がりました。
救いにもれる人は,一人もいないのです異邦の地,日本にも幾多の障害を乗り越えて福音が伝えられました。これは驚くべきことです。ユダヤ人の多くは,今なお主イエス・キリストを受け入れていません。しかしその救いは,必ず実現するでしょう。イザヤは,こうも語っています。「切り倒されたテレビンの木,樫の木のように。しかし,それでも切り株は残る。その切り株とは聖なる種子である。」(イザヤ書,6章13節)。この切り株から,ひこばえが生まれるのです。救いが残されているのです。我々も希望を捨ててはなりません。福音を語っても中々信じない家族,友人。しかし希望は消えてはいません。主の愛の御心は変わりません。我々自身の行き詰まり,病苦,加齢による不安,等々。これらにも寄り添って下さる主を,もう-度,覚え直して前進したいものです。 (磯村弘子)