1月8日祈祷会奨励

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
 1月8日祈祷会奨励 寺島謙牧師
  マタイによる福音書3章1~12節

 洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が、イエス・キリストに先立ち現れて多くの人々に洗礼を授けたことが今日の聖書に記されている。聖書によれば、洗礼者ヨハネは現れるとユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言ったと書かれている。何故ヨハネは荒れ野でこのように言ったのであろうか。聖書にはヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていたという。これはヨハネが宣べ伝えるときだけ、荒れ野に出かけたというのではなくて、普段からヨハネは荒れ野を生活の場にしていたということである。荒れ野は、人間が生き延びることの出来ない過酷な環境を意味する。人間の知恵や能力、そういう目に見える可能性が全く見いだせない場所である。そのような荒れ野をヨハネは生活の場にして、そこで「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えたのは、彼が神以外のものに依り頼まず、神だけを信じて神に従って歩んでいたそういう人物であったからに他ならない。そういう意味において、荒れ野でヨハネが生活していたという聖書の記事が我々に教えていることは、我々人間の命を本当に生かしているのは、天の父なる神だということである。
 

 そのヨハネが、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と荒れ野において宣べ伝えたのは、この神の元に全ての者が悔い改めて立ち帰えらせるために他ならない。悔い改めるとは、向きを変えて180度方向転換をするということである。人間は神の似姿として造られ、神から命を与えられ生かされている存在であるにもかかわらず、神に背きそっぽを向いて神から離れてしまった。人間は皆、その罪をその身に抱えている。人間は、神と向き合う存在として造られた。神が人間に語りかけ、それに応答する関係において人間は初めて自分に与えられている命に意味を見いだし、喜びと希望を持って生きることが出来る。ヨハネの言葉を聴いて「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来た」というのは、神を喪失し生きる希望を見いだし得ないまま途方に暮れる他ない人間が大勢いたということである。もはや神にすがり救って頂かなければどうにもならないそういう現実に向き合わせられた人々が、ヨハネから洗礼を受けるためこ荒れ野に押し寄せたのである。

 故にヨハネが授けた洗礼は、悔い改めの洗礼である。悔い改めるというのは、人間の業、力によることではない。神ご自身が生きて働いて下さらなければ、人間というのは自分の罪を認め、心から悔い改めることは出来ない。神はまさにヨハネを用いて全ての人間を悔い改めさせ、ご自分の元に立ち帰らせようとなさったのである。故に、人間は、自分自身の一切を神に明け渡し、委ねることが求められる。ヨハネの元にやって来た人々の中に、ファリサイ派とサドカイ派の人々も大勢いたが、ヨハネは「蝮の子らよ」と彼らを呼び、「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べと」警告した。彼らほ依然として、自分の力に頼り、神に一切を明け渡そうとはしなかった。自分の力で悔い改めることが出来ると思い、アブラハムの子孫であることを誇ったので、ヨハネは厳しく彼らを戒めたのである。
罪人を悔い改めさせ、赦してこれを救うことがお出来になるのは、神だけである。神ほその独り子であるイエス・キリストを世にお与えになり、罪なき御子を十字架にかけて私たちを赦して救われた。インマヌエル、神ほ我々と共におられる、この救いの約束を実現されたのである。このイエス・キリストの十字架とその後に起こった主の甦り、復活こそ、私たちが神に赦され、救われていることをいつでも明らかにする神の御業、恵みである。
 

 主イエスが自分の方に来られるのを見たヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言った場面がヨハネ伝の1章29節以下に出てくるが、ヨハネは今も聖書を通して、我々に、罪の赦しと救いを得させて下さるお方は、イエス・キリストであると指さしている。救い主が私たちを赦し救うために人となって、我々の所に現れた。主は今も私たちを招いておられる。そして天の父なる神の元に導こうとなさっておられる。そのことを改めて受け取り直し、神の憐れみと助けによって悔い改めさせて頂きたいと思う。

 このヨハネの言葉によって多くの人々が集まった。その中にはファリサイ派やサドカイ派に属する者たちも大勢いた。だがヨハネは彼らのことを「蝮の子ら」と呼んで警告した。神が何よりも求めておられるのは、心からの悔い改めである。だが彼らは自分達が悔い改める必要のない義しい人間であると自負していることを、ヨハネは見抜いていた。人間を罪から救うことがお出来になるのは、イエス・キリストお一人である。このお方の前に、悔い改めることだけを神は我々に求めておられる。