「神と人とに愛されたイエス」
寺島 謙牧師
ルカによる福音書2章41~52節
新しい年が来ました。希望を持って歩み始めたいと思います。それにしても,この新年には,1日に能登の大地震・津波,2日には羽田空港の衝突事故によって多数の死傷者が出ました。一体これはどういうことなのか?我々には、これらを防ぐカがありません。可能な力を出しつつ、神に聴き,神に祈ることのみです。
主イエスの両親は,春の過越しの祭りの際、毎年エルサレムに旅をしましたが,この時は,うっかりして12歳になったイエスをエルサレムに置いたまま,帰途につきました。一日の道程を来てしまってからこれこ気付き,驚いて探しながらエルサレムに引き返し,さらに3日間も探しまわり、ようやく見つけだした。主イエスはそこで何をしていたか。神殿の境内で学者達の真中に座って、彼らと議論していたのです。この時マリアの発した言葉は、何と我々に共感を呼ぶ事か。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していいたのです。」はげしい言葉ですが,人間としての愛の言葉です。しかし,これに対する主イエスの返答は,少年の言葉ではありますが,人間の言葉ではありません。神の子の言葉です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」これこそ今,我々が聴くべき言葉でしょう。我々の避け所,より所は天の父なる御神のみです。
ここで思い出されるの-が,旧約聖書の詩編46簸です。冒頭に,「神はわたしたちの避けどころ,わたしたちの砦。苦難のとき,必ずそこにいまして助けて下さる」とあります。続いて「わたしたちは決して恐れない,地が姿を変え,山々が揺いで海の中に移るとも。」正に,現在の我々への神の語りかけでありましょう。
一方で同様に,人間の罪をも思わざるを得ません。聖書の中のヨセフとマリアも,この時、神を忘れていたのかもしれません。人間は皆,神のことを忘れ勝ちなのです。常に我らと共にいまし給い,必要な助けを与え給う,この神を忘れ勝ちなのです。主イエスの言葉の中の“当たり前”という言葉の原語は,強い断定の言葉です。(英語では「must」が使われています)。神は間違いなく,我らと共にいまし給うのです。マリアはこの時のイエスの言葉を、生涯心に留め続け,ついにはこれを,主の十字架において完全こ理解し得たものと思われます。主イエスはその後,現実の世界で人間として,両親に仕えて生活された、と記されています。 l
年頭草々に体験させられた大災害に象徴されるように、今年も色々な事が起きるでしよう。しかし私共は,週毎の礼拝を通して,神が常に共にいまし給うことを確信レつつ,歩みたいものです。