今朝は,ペンテコステ礼拝を捧げます。聖霊降臨を記念する礼拝です。これに関しては使徒言行録2章1~4飾に,その様子が書かれています。集まっていた人々に,突然,大きな音とともに炎の舌のようなものが下り,彼らは異言(他国の言葉)を話し出したというのです。舌ほ「一人一人の上にとどまった」と書かれている所が大切です。聖書(使徒言行録1章)にある主イエスの言葉が,復活後の50日目に,本当に実現したのです。「聖霊が降ると,あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく,ユダヤとサマリアの全土で,また地の果てに至るまで,わたしの証人となる。」
この時以来,世界各地に教会が生まれました。伝道とは正に,主の証人となることです。今も伝道は,相変わらず困難の中にありながら推し進められています。これこそは,聖霊の御働きです。
聖霊とはいかなる方なのでしょうか。父と子の神は分るけれども,聖霊については,よく分らないという思いが,牧師にさえもある場合があるのです。目に見えないからでもありましょう。しかし聖霊なる神は,実に日夜働いていて,我々を守り導いていて下さるのです。必ずしも,劇的な事象を通してではありません。聖書箇所にある通り,聖霊によらなければ,「イエスは主である」と告白することは出来ません。これが出来る我々は一人一人皆,聖霊を受け,聖霊の導きの下にあると言えるのです。これと反対の立場にあるのが,偶像を求め,これに仕えている人々です。偶像は人間が造ったものですから,ものを言わず,我々を助けてくれることも,我々に答えてくれることもありません。それなのに人間は絶えず偶像を求めたがるのです。我々は,すでに聖霊が与えられていることを信じ,この信仰によって生きる望みを抱きつつ日々を送りたく願うものです.
我々は聖霊をいただいていると同時に,-人一人に異なった賜物が与えられています。聖書にある通り,知恵の言葉,知識の言葉,信仰,病気を癒す力,奇跡を行う力,預言する力,等です。これらは,何のためでしょうか。教会を建てるためです。一人一人は,これらの異なった働きを以て,信仰と伝道の基となる教会を建て,これに仕えるのです。全体の益となるために。
きびしい生の中にあって,うなだれ勝ちな我々に,主は常に語りかけ給います。「わたしが共にいる。わたしはイエスを十字架につけて我が愛を示した。わたしを信頼せよ」と。使徒パウロの言葉も同じことを語っています。「苦難は忍耐を,忍耐は練達を,練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章3~5節)