「行け、わたしがあなたを遣わす」
寺島謙牧師
使徒言行録 22章17節~22節
使徒パウロは,異邦人(ユダヤ人以外の人々)への伝道に生涯を捧げた人でした。ヨーロッパ諸国を目指し,イスパニヤにさえも行く意図があったようです。当時は,車も列車もありません。殆んど徒歩による移動だったでしょう。船路の旅行で,難破したこともありました。人々の暴力を受け,捕えられて獄に入れられた事もありました。しかし,パウロの艱難に満ちた伝道がなかったならば,今日のキリスト教信仰は無かったと言えるでしょう。この教会も生まれてなかったかも知れません。
パウロがエルサレムの神殿で熱心に祈っていた時,我を忘れた状態(自分自身から解放され,全く自由になった状態)になり,主にお会いしました。エルサレムでは人々は,主の福音を信じないから,この地を去れ,と主が言われたのです。パウロ自身は,ユダヤ人が主を受け入れてほしいと切に願っており,その実現に使命感をもっていました。しかし現実には,ユダヤ人の多くは自らの力を頼み,神から離れて行ったのです。正に,現代の人間社会の状態でありましょう。神なき世界が,どのようになって行くか。多くの不正や争い,戦争。それに,一部の人間の私利私欲に端を発する,環境破壊。これらは,人間が断崖絶壁に向かって進んでいる姿です。肉の力には限界があり,これにのみ頼ることは,絶望に他なりません。
主イエス・キリストの十字架により,罪ゆるされたパウロは,同胞のユダヤの人々にも,この事びを伝えねばならないと考えていましたから,主の言葉に驚いたことでしょう。まず第一は,ユダヤ人だろう,と考えていたと思われます。しかし主は,パウロに対して,「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」と明白に語られたのです。我々の国,日本も,異邦の国です。主の御旨は,全ての人々が福音を聞かされ,救われる事であったのです。
マタイによる福音書19章に,「しかし,先にいる多くの者が後になり,後にいる多くの者が先になる。」という主の言葉があります。異邦人が先になり,ユダヤ人が後になる。主は勿論、ユダヤ人の救いをも考えておられるのです。全ての人々が主の愛を受け,救われることを願っておられる。「行け」,という言葉は,我々に向っても語られています。多くの問題や悩みをかかえつつ,生きているのが我々です。パウロを神殿に招き,祈りへと招かれた主は,我々をも招いて下さるのです。自分のカのみに頼る生き方には,希望かありません。使徒パウロに対して語られた「行け」という主の言葉は,我々に真の勇気を与えるものです。これを信じて,希望をもって,日々の歩みを進めたく願うものです。