「主の御心が行われますように」
寺島謙牧師
使徒言行録21章1節~16節
第3回目の使徒パウロの伝道旅行の帰途,ミレトスに着いた彼は,そこから近いエフェソの教会の長老たちを呼び,自分の使命と,教会の将来を案じる思いを語ります。そしてはっきりと,これからの行く先を断言します。「そして今,わたしは,“霊”に促されてエルサレムに行きます。」(20章22節)本日の聖書箇所は,そのエルサレムに近いカイザリアまでたどり着いた時の話です。これまでに通って来たミレトスでも,またテイルスでも,人々は,パウロとは今後二度と会えないこと,またパウロにはエルサレムで非常な危険が待ち受けていることを予想し,別れを切実に惜しんだのでした。当地カイザリアでも人々は切にパウロが反対者の多いエルサレムへ行くことを思い止まるように願いましたが,パウロ自身は断乎として聞き入れません。いく分,怒気を含んだ口調で語ります。「泣いたり,わたしの心をくじいたり,いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば,エルサレムで縛られることばかりか,死ぬことさえも,わたしは覚悟しているのです。」そこにやって来た預言者なる人も,パウロはエルサレムでは,縛られて異邦人に引き渡される,と言います。エルサレム行きを反対したティルスにいた弟子たちも,“霊”に動かされて反対していたのです。正に,共に霊に動かされた,パウロと反対する人々との対峙です。しかし,パウロの確信が勝ちました。パウロは,深い祈りによって,ゆるぎない信念を得ていたに違いありません。「イエスの名のため」と語られました。“名”とは,その人自身を示します。かつて主イエスは,「わたしは父の名によって来た」(ヨハネ,5:43)と言われました。
このような,共に正しいと思われる二つの相反する道の岐路に立たされることが,我々にもありIます。神の御心は,その時,直ぐには示されないこともあります。そのような時,友人や牧師に相談しますが,そこで,正しい答えが得られないこともあるでしょう。しかし神は,時を経て必ず答えて下さいます。この場合,パウロは十分な時間をかけ,何日もの間,祈ったのではないでしょうか。そして真の救い主,イエス・キリストが,まことに地上に来て罪の全てを引き受けて下さり,その主が,今,共に居られ希望を与えて下さることを確信したのでしょう。この確信を押し通したパウロは,人々の予想通り,エルサレムで捕らえられてローマに移されます。それまでの間,色々なことがあったのですが,結局パウロは,ローマでも宣教することが出来たのです。もしこれらがなかったら,今日のキリスト教はなく,この教会もなかったかも知れません。パウロのエルサレム行きは結局正しく,主の御心にかなったものだったと言えます。