主イエスは先頭に立って歩まれました。行き先は数100mの高みにあるエルサレム。ここでは,イエスの使命である苦難と十字架の死が待っていることを,御自身がよく知っておられました。しかし,父なる御神のみ旨に従うことを第一とされた主は,弟子達の先に立って,この大きな危険に向かって勇敢に進まれたのです。この受難について,主はすでに予言をしておられました。本日の聖書箇所は,この予言の3度目で(8,9,10章),ここにある異邦人とは,総督ピラトのことです。彼は主イエスの無実を知りながら主を侮辱し,ユダヤ人に引き渡しました。悪事とは全く無関係な主イエスが,極度の苦難を負うこと,この理不尽の極みが,神の御心であったと,聖書は伝えています。
主を直接的に死に渡したのはピラトですが,真実に主を死に引き渡されたのは神御自身です。ローマの信徒への手紙8章32節に,明白にこの事が書かれています。「わたしたちすべてのために,その御子をさえ惜しまず死に渡された方は,御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」主の死は,わたしたち人間の救いのためだったのです。
最近,テレビやラジオで,「わたしたちは生かされている」という言葉がよく語られますが,聖書的に見ても,これは正しい表現です。例外なく,死に向かって毎日を歩んでいる私達自身の中には,真のカはないのです。私達は生かされ,歩まされているのです。実に私達は天の御神から全てを与えられています。丁度,主イエスが,弟子達の先頭に立って前進されたように.神はいっも共に歩み給い,しかも先立って歩まれるのです。私達は,いっもこれを忘れるのですが,神は決して忘れ給わず,また見捨てられないのです。ルカによる福音書の中にある放蕩息子のたとえ(15章)に出てくる息子は,身勝手な行動の結果,死に瀕するまでになりますが,その中で父の愛を思い出しました。父の愛があったからこそ,彼はこれを思い出すことが出来たのです。私達一人一人への,深い神の愛。主イエス・キリストの死により私達を赦し,愛し給う御神。ある牧師は、「主の十字架は,あなたのためです。」と喝破しました。この主イエスは,神の力によって甦り給いました。どんなに人間の智恵や科学が進もうとも,人が甦ることは,不可能です。病や老いを荷ない,死に向かって歩んでいるように見える私達は,実は復活に向かって前進しているのです。この先頭に立って歩んで下さる主を思う時,私達は困難や苦難にもかかわらず,生き抜くことが出来るのです。共に歩まれる主に目を向けて,勇気をもって歩み続けたく願うものです。