アンティオキア教会(シリア)から,主の御旨にかなった3人が伝道に派遣されました。パウロとパルナバ,それにヨハネという助手でした。伝道には様々な障害がありました。悪しき魔術師との対決もありました。しかし一人の人間(地方総督)が信仰に目覚めました。一人の人間が救いにあずかるためには、聖霊の特別なお働きと助けがあるのです。
さて,西方に向けての伝道の旅を続けていた3人のうち,ヨハネだけは,ベルゲという地に来た時,一行と別れてエルサレムに帰ってしまった,とあります。一体何があったのでしょう。我々には分かりません。そればかりではありません。後に(15章),パウロとパルナバという,特に主に聖別されたこの二人でさえも,意見の対立から,別行動をとるようになった,とあります。それにしても、聖書とは,何と真実の書ではありませんか。この二人のような立派な人間でさえも,対立する。人間の真実の姿です。自分の姿が写し出されているような気がします。主キリストが教え給うた「主の祈り」の中にも,「我らに罪をおかす者を,我らが許すごとく,我らの罪をも赦し給え。」とあります。ある説教者は,我々の許しに先行している,と語りました。全ての人を許すのが,神の赦しです。
パウロは、到着したアンティオキア(ピシディア州)の会堂で人々に語り始めました。それは,イスラエルの歴史でした。その救いの原点とも言える,出エジプトの事件です。頑ななエジプト王の下で,虐げを受けていたイスラエルの民を,神はその御力をもって救い出されました。これは神の奇跡でした。しかし民は、繰り返し神から離れ,罪を犯しました。後に,王として立てられたサウルも,罪のゆえに神に退けられ,代わって王の位についたダビデも,非常に立派な信仰の人ではありましたが,やはり人間の犯す罪からは逃れ得ませんでした。骨肉の争いに巻き込まれ,自分の息子を殺してしまいました。しかし,神の赦しは限りなく大きなものです。このダビデをも赦し,神はその子孫から救い主キリストを世に降し給いました。バブテスマのヨハネが証言した通り,主イエスこそ,人間の罪を引き受けて死に給うた,真の救い主であり給いました。神の赦しが顕現したのです。これによって,神は人間に対する真の愛を知らしめて下さったのです。
パウロの語りかけは更に続くのですが,最近私どもがよく耳にするのが子どもの虐待の話です。全く愛とはかけ離れた行為です。子どものためには何でもするのが愛のある親の姿です。神の愛はこれに勝るものです。偽りのない愛,限りなく赦す愛です。(磯村弘子)