説教(2021年10月月報より)

 人間の救いは,人間の努力による律法の遵守で得られるものではなく.主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ受け入れることによるものである,という福音を聞かされたアンティオキア教会の人々は,心から喜びました。これを伝えたのは,エルサレム教会から派遣されたパウロとパルナバ,それに,ユダとシラスの4人でした。ユダとシラスは役目を終えた後,帰途につきましたが,パウロとパルナバは,さらに当地にとどまって,この福音をなお多くの人々に伝え続けたのでした。
 福音はこのように,「教会」に伝えられたのです。教会こそが,この信仰に生きる生活の場です。信仰とは生活です。教会は主イエス・キリストの体であり,我々一人一人はこれに結ばれている枝であります。正に主イエス・キリストが言われた通り,葡萄の木とその枝の関係です。生活の中の事柄は,全て神との関係で結ばれているのです。勿論,教会の歩みが常に全く正しいとは限りません。人の罪が入り込むこともあります。しかし,教会は聖霊によって守られ,聖霊が正しい道へと導かれるのです。このように神に守られている教会に結びつく事により,我々は罪に打ち勝つことが出来るのです。
 さてパウロは,先の問題が解決したので,改めてもう一度,以前に訪れた町へ行って,信者たちの様子を確かめようと,パルナバに提案しましたが,ここで新たな別の問題が出て来ました。マルコ(別名ヨハネ)という弟子を同行するか否かせいう件です。このマルコは,バルナバの親戚に当たり「マルコによる福音書」の著者と目されている,信仰あつい人です。この彼が何故か,過去にパウロに従わず,伝道旅行の途中で帰って行ってしまった事がありました。理由は正確には分っていませんが,今は充分反省して伝道に立ち向かっていると,パルナバは考えていました。パウロはやはり彼を同伴しては,伝道の妨げになることもあり得る,と考えたのでしょう。そこでバルナバはマルコを連れてキプロス島に行き,別行動をとる事にしました。パウロはシラスとともに先へ進み,諸教会を力づけた,とあります。そのようにして,主の福音は主の御言葉どおり,地の果てに到るまで,宣べ伝えられることになって行くのです。
 牧師は先日,公務で高知の佐川教会を訪問する機会を得ました。専任の牧者を迎えたばかりの,現住陪餐会員9名で,教区互助を受けている小さな教会です。その上,会員のほとんどは皆,高齢者です。しかし全員が生き生きとしていて若々しい。この中に主が生きておられる,聖霊が働いておられる,と強く感じました。教会とは,聖霊の力に支えられ,導かれる存在である事が実感されました。感謝すべき事です。