「心の清い人々は、幸いである」
4月6日礼拝説教 寺島謙牧師
マタイによる福音書5章8節
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」という主イエスの言葉である。「心の清い」というのは、心が清く正しいとか、心が悪い思いで汚れていないということではない。宗教改革者カルヴァンは、「純真とか、無邪気」と言っているが、「心に混じり気がない、純一」な状態のことだと指摘する。つまり「一つのことを思う」状態である。主イエスが「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われたが、ここで言われている「心の清い人々」というのは、一心に神を救い主と信じて生活する人々のことである。しかも信仰は、人間が努力精進して得られるものではない。二心に陥りやすい罪を抱える人間を神は恵みたよって赦し、「清い心」すなわち信仰をお与えになる。それは「その人たちは神を見る」とあるように、神は信じる者達にご自身を顕して下さる。そして罪を赦し、救いを与えて限りない命に生きる者として下さるのである。