「義に飢え渇く人々は、幸いである」
3月23日礼拝説教 寺島謙牧師
マタイによる福音書5章6節
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」という主イエスの言葉であるが、「義に飢え渇く人々」とはどういう人達のことなのであろうか。「義」という言葉は、「正しい」という意味である。「正義」という言葉があるが、いつの時代においても正義が貫かれることを誰もが願い求める。だが正義とは何か,悪人も善人もそれぞれに自分の義を主張する。それを振りかざし対立し、敵意と憎悪をもって互いに傷つけ合っている。だが使徒パウロは、「正しい者はいない。一人もいない」と述べて、人間は皆「罪」のもとにあることを指摘した(ロマ3:9~10)。人間は神の似姿として創造され、神から命を与えられ生かされている掛け替えのない存在である。だが人間は皆、神に背き、神を無視して罪を犯している。罪故に人間は神の怒りと裁きを免れず、死と滅びに向かう他ない。「義に飢え渇く人々」とは、自らの罪を知り、神の憐れみと赦しによらなければ、自分は救われないことを認織し、ひたすら神に祈り求める人々(信仰者)のことである。神はその折りに必ず応え、主の十字架の恵みによって罪を赦し救われる。