CS礼拝説教 マタイ18章13~15節 

 「天の国はこのような者たちのものである」とイエスさまが話された聖書の物語です。 ある日のことです。イエスさまに手を置いて祈って頂くために、人々が子どもたちをイエスさまの所に連れて来ました。おそらく小さな子どもたちを連れた大人たちが何人もやって来たのでしょう。イエスさまが生活していたユダヤの国では、「先生」と呼ばれる立派な人や律法の専門家や長老に、子どもの頭に手を置いて祈ってもらうことが日常的に行われていました。子どもが健やかに成長し、生涯が祝福に満ちたものとなるように、神さまに祈りが捧げられたのです。イエスという大変有名な力ある先生が、自分たちの住む町にお出でになられたことを聞いた、子を持つ多くの大人たちがこの機会に是非、子どもたちに手を置いて祈って頂きたい。そう思って、イエスさまのおられる所に集まって来たのです。するとイエスさまのお弟子たちがこの人々を叱ったのです。弟子たちは、主イエスが多忙を極め、大変お疲れになられていることを慮って、イエスさまを患わせてはいけない、少しでも.休息を取って頂きたいと配慮してそのようにしたのでしょう。 

 ところがイエスさまは弟子たちにこう言われたのです。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」。このイエスさまの言葉ほ、まだ右も左も分からない、大人の手助けがなければ生きてはいけない無力な存在である幼子たちを、私は無条件で受け入れる、だからそれを拒んではならないという大変に強い意志を持った言葉です。しかもただ受け入れるというだけでほありません。「天の国ほこのような者たちのものである」とイエスさまは言われました。「天の国」というのは、天の父なる神さまの力、支配が及んでいるところです。この間、返済不可能な1万タラソトンという金額の借金をしていた家来を憐れんで赦してその借金を帳消しにした王さまの話しを聞きましたが、天の国というのは、罪という返済不可能な借金を抱える私導罪人を憐れんで、それを帳消しにしてすっかり赦して下さる神さまの御支配の中に招かれて生きる、救われるそういう現実です。 

 イエスさまの所に連れて来られた幼い子どもたちも決して例外ではありません。大人だけが罪人だと聖書は言っていません。子供たちも皆罪を孕んで生まれてきます。人間は皆、自分自身の奥底に罪という自分では絶対に解決出来ない、まさに返済不可能な大きな借金を抱えながら生きているのです。その罪は他でもない私達を造られ命をお与えになりその命をいつでも生かして下さることを約束された天の父なる神さまに対して犯した咎です。借金で首が回らないと申しますが、人間は罪が本当に解決して赦されなければ、本当に一人の人間として自分に与えられた命を喜んで、感謝をして希望を持って生きることは出来ないのです。ユダヤ人たちは、自分が抱えている罪は、天の父なる押さまによらなければ決して解決されない、赦されることも救われることもないことを知っておりました。ですから一生懸命に聖書を学び、律法を守り、天の国に入るその時を待ち望みつつ生きていたのです。そういう意味では、何も知らない、無力な子供たちは、最も天の国から遠い存在であったと思われていたかもしれませんね。 

 でもイエスさまはそのようにはお考えになられなかったのです。子供たちを遮った弟子たちに、「子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。天の国は、自分の努力や精進で、熱心で招かれる所ではない。そうではなくて神さまの一方的な憐れみと赦し、恵みによって招かれることをイエスさまはここで教えておられるのです。そして幼子のように素直に、その招きに応える信仰だけを神さまは求めておられる。そのために神さまはイエス・キリストという途方もない大切な宝を世にお与えになって、赦されざる者を赦し、愛して御自分の元に招いておられるのです。イエス・キリストの十字架は、この罪深い私を赦して救うためであった。この恵みを、ありがとうございますと言って感謝して受け取ることを押さまは私達に求めておられます。イエスさまは今日も、私達の前にお立ち下さり、「わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのようなものたちのものである」と呼んでおられます。このイエスさまの言葉に私どもも素直な心でお応えしたいと思います。アーメン。