8月11日

み言葉のそそぎ 説教題「キリストが来られる時まで」」 

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13~18節  寺島謙牧師

 日本基督教団信仰告白において、教会(信仰者)が何を目指してこの地上の道程を歩んでいるか、明確に告白されている。「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バブテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛の業に励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む。」信仰によって生きるとは、十字架の上で死なれ、三日目に墓より甦り、そして天の父なる神の元に昇天されたイエス・キリストが再び、天より地上に来られるその時を待ち望みつつ、今日を生きる歩みである。主の来臨によって、インマヌエル「神は我々と共にいます」という神の救いが実現する。この主の来臨こそ迫害の中を歩まざるを得なかった初代教会の希望であった。だが一方で、既に召された人は救われないのかという疑問があった。
テサロニケの教会からパウロに出された質問はこのことであった。これに対してパウロは、既に眠りについた人達については、嘆き悲しむなと命じた。キリストの十字架と復活において約束されているように、主を信じる者は必ずキリストと同様に死から甦らせられ、主と共に生きる新しい命に与る者とされているからだと教えた。主の十字架と復活こそ、主の来臨の時を目指して、この地上を生きて行かねばならない、私達信仰者が依って立っべきただ一つの望みであり、慰めであり、救いに他ならない。