説教(2023年6月月報より)

「神のお守りと助け」

寺島謙牧師

使徒言行録 22章22節~29節  

 使徒パウロの苦難の伝道旅行は続きます。長い船旅の後,ティルスを経てカイザリアに帰って来たパウロは,危険が待つエルサレムヘは行かないように,と人々が頼んだにもかかわらず,御霊の導くままに,エルサレムに行きます。そこで待っていたのは,ユダヤの人達の激しい反感でした。パウロが異邦人を神殿の中に連れ込んで、神殿を汚したと主張して,彼を引きずり出して殺そうとします。都の全体が大騒ぎになりました。これらのユダヤ人達は,選民意識で凝りかたまり,特権的意識に毒されていたのでしょう。ここでパウロを直接的に助け出したのは,ローマの市民権を持つ千人隊長でした。隊長は,パウロを救い出し、弁明することを許します。ここでパウロは,階段の上に立って,大いに弁明します。
 使徒パウロは,かつては自分自身も異邦人に敵対して彼らを迫害していたこと,主イエスに出会ってその誤りに気付かされたこと,その人達にも主の福音を伝えることが使命となったこと等を,堂々と語りました。ところが,これを聞いた民衆は,納得するどころか,ますます怒り出して,砂挨を空中にまき散らす程になった,と書かれています。千人隊長も,この民衆の怒りの原因がわからず,パウロを鞭で打ちたたいて調べようとしました。しかしパウロが,自分がローマ市民権を持っていると述べて、打ち手を牽制したので,この刑を免れたのでした。パウロは助かりました。この鞭打ちの刑は,しばしば聖書にも現われますが,実にひどい刑なのです。硬い革の上に,骨のような物をつけた帯で背中を打ちたたくので,打たれた者は多量の血をながし,時には死に到ることもあったと言われています。ローマ市民であることを主張したパウロも立派ですが,同時に神がパウロを守り給うたに相違ありません。こうして福音を述べ伝える器として用い給うたのです。
 ユダヤ人達の怒りは,結局はパウロの背後にいまし給う,主イエス・キリスト(父なる神・造物主と全く一体の神です)への反抗だったと思われます。今なお,この反抗は続いており,ユダヤ人国家イスラエルは,隣国パレスチナの人々と争いを続けています。ローマの信徒への手紙3章9~10節には,『ユダヤ人もギリシャ人も皆,罪の下にあるのです。「正しい者はいない。一人もいない。」』と書かれています。パウロが語ったのは,主イエス・キリストの十字架の死によって罪ゆるされた者の体験と,今なお主が共にいて下さる幸いであったのです。聖書を通して語られる言葉は,神の摂理です。この神の愛は,きびしい現実の中を歩んでいる我々一人一人にも注がれています。また教会の歩みの上にも,主の目が注がれているのは事実です。これを信じつつ御言葉の伝道に励みたく思います。