説教(2022年5月月報より)

 今朝,イースター礼拝を迎えました。主イエス・キリストの復活,これこそ我々の信仰の土台であり,命であります。実に,これがなければ,キリスト者も,教会も,聖日礼拝も無きに等しいものです。我々キリスト者の信仰生活の中にも,色々な事一困難,悩み,行き詰まりなど-が入り込んでおり,これらと向き合っている現実の中で,主の復活を,本当に信じているかを問われる時があIります。
その最たるものは,親しい者の死に出会う時でしょう。今朝の聖書箇所は広く知られたラザロの死の場面です。マルタとマリア姉妹の弟が死んでから,早や4日も経っていました。4日経っていたという事は,ラザロが,疑う余地なく完全に死んだという事です。この場に主イエスが来られました。主は,彼の死をお認めになりました。主は人間の死を受け入れられるのです。どんな死をもお認めになられます。これは我々の慰めです。この時主は共にいまし給うのです。
 しかし妹のマリアは,諦め切れず,座ったまま動けませんでした。主を迎えに出た姉のマルタも,同じ気持ちだったでしょう。主に言います,「主よ,もしここにいてくださっていましたら,わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」実は,前の部分に書かれているように,主はラザロの死を予知しておられましたが,意図的に,すぐにはその場に行かれなかったのです。そして弟子達に,「わたしがその場に居合わせなかったのは,あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」と言われました。マルタに対しては,「わたしは復活であり,命である。わたしを信じる者は,死んでも生きる。」と話され,これを信じるか,と問われたのです。マルタが信じた通りに,ラザロは生きかえりました。
 我々にとって,死は絶望です。これは必ず来る。しかし,信じる者は,ラザロの奇跡を起こされ,自らも死んで甦られた主に結ばれて、必ず甦るのです。我々も必ず復活する。この真実を,共に心から信じ直す時が,このイースター(復活節)です。月毎にあづかる聖餐は,主イエス・キリストの血と肉を通して神と交わり,これによって生きる者とされることを体験する時です。主自らが我々に近づき,背を押され,主を信じるる者とされるのです。ヨハネによる福音書20章に,12弟子の一人であるトマスに働きかけた主の言葉が書かれています。どうしても信じることが出来なかったトマスに,主自ら御自身の御傷を見せて,「信じない看ではなく,信じる者になりなさい。」と語られました。後に有力な伝道者となって,インドの伝道に大きな足跡を残したと伝えられる,このトマスへの御言葉を覚えつつ,週毎の礼拝で信仰を新たにされるよう願うものです。