使徒パウロの伝道旅行は,三度にわたる遠い道のりでした。それは,いずれも困難を極めたものでした。今回の箇所は,その第2回目に起きた出来事です。大都市テサロニケで迫害に会ったパウロとシラスを,理解者たちは,危険を避けさせるため,夜のうちに急いでベレアに送り出しました。そこに着くと二人は直ちにユダヤ教の会堂に入り,伝道を始めたのです。幸いなことに,ここのユダヤ人は信仰心があつく,二人の語る福音の言葉をうけ入れ,これを聖書で確かめていました。正に神の備えられた御業です。彼らは,聖書の言葉によって毎日を生きていた人達と言えるでしょう。多くの人が,パウロらの言葉によって信仰に入りました。
主イエスがサタンの試みに会った時,「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ-つの言葉で生きる」という言葉で,これに打勝った,と聖書に書かれています。私達の先達たちは,聖書にある神の言葉を心に留めるために,それらを暗唱しました。それ程に,聖書の言葉には,力があるのです。一見して力を持つように見える,この世のもの一切は,空しいものです。旧約聖書にあるヨブは,「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と述懐しました。この世の何ものも(財産も,名声も,よき思い出も)来世に持って行けないのです。聖書にある神の言葉こそ,真の慰めなのです。そもそも言葉というもの自体,力のあるものなのです。ある医師は,人は臨終際,自ら話すことが出来なくなっても,外からの言葉は聞こえているのだ,と言っています。聖書に出て来た、ベレアのユダヤ人は、非常に熱心に神の言葉を求めていました。 日毎毎にこれを食べ,舐めていたと言ってもよいかも知れません。このような折に,パウロ達が,あなた方の求めている方こそ,イエス・キリストだ,と語ったのです。そして何故,主イエス・キリストが世に降られたのかを話したのです。求めていたものが与えられ、ユダヤ人達はこれを信じ,受け入れたのでした。
罪人である人間の姿は変っていません。最近のウクライナ情勢も,これを物語っています。私達も相変わらず,罪を犯さざるを得ません。しかレパウロは,罪の赦しと人間の救いを語り,救い主,イエス・キリストは今も生きておられ,私達に降りかかる多くの問題を解決し,また倒れそうにも見える教会を、支えて下さっていると語ります。「ローマの信徒への手紙」の8章28節には、「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを,わたしたちは知っています。」とあります。「知っています」とは,確信以上に確かな事実だという意味です。私達もこの真実を,確かな事として受け入れたいと思います。