説教(2020年3月月報より)「神の奉仕にめされた者たち」

 本日の聖書箇所には,生まれて間もない初代教会の成長が,生き生きと描かれています。信徒は増えて行きしたが,聖書は「信徒」とは言わず,これを「弟子」と呼んでいます。主イエスを信ずる者は全て主の弟子なのです。ところが弟子の数が多くなり,教会が大きくなると,色々な問題が生じてきます。ここでも,ギリシャ語を話す者とヘブライ語を話す者との間に溝が出て来たのです。同じユダヤ人でも,前者は外国生活も経験して,広い世界を見てエルサレムに帰ってきた人達ですし,後者は生まれながらユダヤにいて生活してきた人達でした。お互いの偏見もあったでしょう。特にユダヤ人の夫が死んで,あとに残された外国人のやもめ。教会はこれらの人達を色々と世話したでしょうが,それでも日々の分配のことで苦情が出てきたようです。聖書は本当に正直な本です。ありのままを,包み隠さず書き示すのが常です。罪人の集まりである教会に,色々な問題が起きるのは,今日も変わりません。時には分裂に到ることさえあるのです。さてここで十二使徒たちはどうしたか。自分達がこのような問題に巻き込まれて,大切な神の言葉を語り伝える業に,支障が生じてはならないと考え,弟子達の中から信頼できる者7人を選び,これを任せたのです。これは今日で言う「執事」に当たる人達です。食事の世話,その他の実務的な仕事に当たります。この中には,後に殉教した有名な聖徒ステファノも入っていました。皆,立派な信徒でした。牧師自身の経験からしても,今日でも,どんな小さな教会にも,立派な信徒が与えられているのが実情です。
 十二使徒たちは,「わたしたちは,祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と言ったのです。これが正しいことでした。御言葉こそ命です。かつて,ドイツのナチズムが勢いを増して人々を弾圧して時,告白教会が発したバルメン宣言も,正にこのことを証ししています。「聖書において我々に証しされているイエス・キリストは,我々が聞くべき,また生きている時にも,死ぬ時にも,信頼し,服従すべき,唯一の神の言葉である。」キリストこそ,我々を生かす言葉であり命なのです。使徒パウロは,伝道の障害となる病をかかえながら,「生きているのは私自信ではなく,私の中に居給うキリストである。」と告白しています。
 十二使徒の筆頭ともいえるペトロの書いた手紙Ⅰの1章8節には,「あなたがたは,キリストを見たことがないのに愛し,今見なくても信じており,言葉に言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」とあります。私共は,この主イエス・キリストと共に,希望をもって伝道するのです。主が,弱さをかかえる私共を,用いて下さるのです。