「元気を出しなさい」
寺島 謙牧師
使徒言行録27章1~26節 使徒パウロは度重なる伝道康行の最後に,カイザリアからローマに行くことになりました。不条理な裁判の括果を,ローマ皇帝に上訴するためです。しかも広い地中海城を渡る,困難を極めた旅でした。アリスタルコとルカも同伴しました。ギリシャと小アジアの中程の地中海上に,クレタ島という島があり,そこの「良い港」というところに着いた時,パウロは,時期的にこのまま進むと危険だと訴えましたが、船長がこれに従わずに船を進めたために,暴風に巻き込まれる事になります。船は流されるままになり.ついには,積み荷も船具も投げ捨てることとなりました。船上の人々は,長い間,食事もとれませんでした。まさに,お手上げの状態です。
これについて、思い出されるのが,周知の,わが国の日航機墜落事故です。全く誰も予想しなかった大事故が,現実に起きました。これが私達の人生です。私達人間の無力さです。「望みは全く失せた」という思いに,無関係な人はいないのではないでしょうか。人間の希望のなさであり,結局,地上には確かな希望はないのです。
さて聖書の場面で,船の中に唯一人,希望を捨てない人がいました。パウロです。彼は「立って」言ったと書かれています。「俺がせっかく注意したのに,それ見たことか。」と強調したのではありません。「元気を出そう。」と,皆を励ましたのです。パウロも人間です。一時は絶望したかも知れない。信仰を失いかけていたかも知れない。しかしそのパウロに神は天使を通して語りかけ給い,皆が助かることを告げられたのです。恐らく,パウロ自身,改めて,神が共にいまし給うことに気付かされたのだと思われます。常に不信仰に陥り勝ちな私達にも、主ご自身が近づき給い,励まして下さるのです。
1954年9月に起きた海難事故(洞爺丸事件)では,同様なことがあったと伝えられています。何人かの外国人宣教師が乗船していました。彼らは人々を励まし続けていました。中には,日本の若者に自分の浮き具を渡して,自らは水中に没した者もいたということです。彼らと共に主がいまし給うたのです。彼らは,主を証ししたのです。
創世記にしるされている,イサクの子,ヤコブ。ずる賢く,兄エサウを騙したため、命をねらわれて逃げ出した彼は、淋しい荒野の一人旅で,神にも見捨てられたと思ったでしょう。しかし主は,彼をお見捨てにならなかった。夢の中で,「私は共にいる」と語りかけられたのです。私達も,しばしば神を見失います。そのような時,私達自らが神に近づくことは出来ません。神の方から,私達に近づき,ともにいまし給うことを知らしめ,励まして下さるのです。このことを決して忘れずに居たく思います。